【インタビュー】 株式会社ガスエネルギー新聞代表取締役社長 柴田陽一様 〜その2~


選手からもらった手紙がいまも宝物。
決勝戦はハーフタイムで着替える決断と実行が奏功

村上 日本一になったシーズン(1985年度)は、順調に進んだのですか。
柴田 そうでもなかったです。私たちより一学年上は、松永敏宏キャプテンはじめ、玉塚元一さん、市瀬豊和さんなどスター選手がいて、上田さんはこの代を日本一に導こうとしていたと思います。でも、決勝戦で平尾誠二さんのいる同志社に負けました。準優勝で終わったこともあり、私たちの代は優勝を目標にしようと4年生で話し合い、上田さんに持っていったら、「お前たちにできるわけがない」と鼻っ柱を折られました。「まずは対抗戦で4位以内を目標にしろ」と。

村上 目標値を下げられたのですね。
柴田 同期の仲間は反骨心で燃えたと思います。上田さんは、一つずつステップを踏んでいこうと言いたかったと思います。結果的に本当に対抗戦で4位になり、そこから優勝しました。大学選手権の1回戦では村上さんのいた大阪体育大学に追い詰められましたよね。あれほど、ひやひやした試合はありません(笑)。

村上 後半猛反撃しましたね(笑)。上田さんが前年の準優勝の賞状を破ったのはいつですか。
柴田 準決勝で早稲田に勝ち、決勝戦(対明治大学)の前ですね。「俺たちが目指してきたものは、これじゃない」と、みんなの前で破りました。みんなの心を一つにするのも上手でしたね。実際にはカラーコピーだったのですが(笑)。

村上 決勝戦は引き分けでした。
柴田 明治が1トライ、1ゴール、2PGで12点です(当時、トライは4点)。慶応は4PGで12点でした。今のルールであれば、トライ数で勝った明治が日本選手権進出ですよね。でも当時は、引き分けは両校優勝で、日本選手権への出場権は抽選で決めることになっていました。試合後、明治の北島忠治監督と、上田監督が話し合って、「せっかく優勝したんだから、一晩くらいは優勝の美酒に酔おう!」ということで、翌日、両キャプテンと両チーフマネージャーが日本ラグビー協会に行って、抽選をしました。

村上 粋な計らいですね。日本選手権の出場権を引き当てたきは、どんな気持ちでしたか。
柴田 嬉しかったのですが、明治の気持ちも考えて喜びは表に出さないようにしました。その後も明治の皆さんとは仲良くしていますし、先日も、その時の慶応の中野忠幸キャプテンと、明治の南隆雄キャプテンが食事をしたそうです。私も参加したことがありますが、2人はよく会っていますよ。

村上 大学選手権の決勝戦前に選手たちから手紙をもらったそうですね。
柴田 当時は試合に出られない選手が、試合に出る選手に手紙を書く習慣がありました。そのときは逆に私も試合に出る選手から手紙をもらったのです。もう40年近く前の手紙ですが、私の宝物です。

村上 「明日は、お前を日本一の名マネージャーにしてやるよ」と書いてありますね。こんなメッセージをもらったら、泣きますね。
柴田 選手を最高の状態でグラウンドに出してあげたいと思いました。実は決勝戦の日は午前中晴れていたのですが、キックオフの1時間前から急に大雨になりました。1月だから寒くて、これは大変だと思いました。当時はジャージーをハーフタイム
で着替えるという発想はなかったのですが、びしょ濡れになるから体が冷えるし、交換した方がいいと感じて、急きょ後輩を日吉の合宿所に走らせ、サブのジャージーを持ってきてもらうことにしました。国立競技場から往復1時間で行くのは難しいのですが、車だと渋滞に巻き込まれる可能性もあるので、車と電車の二手に分かれて行かせました。ハーフタイムぎりぎりに着替えのジャージーが間に合って、慶応は着替えて後半に臨むことができました。あとで、明治の選手から「慶応がうらやましかった」と言われました。何かできることはないかと考えた行動でした。

村上 日本選手権ではトヨタ自動車にも勝ちました。
柴田 上田さんはもともとトヨタ自動車の社員でプレーされていたこともあって、一人一人の特徴を細かく書いてくださった。緻密な分析で相手を凌駕していくところも上田さんの凄いところでした。

村上 東京ガスに就職された理由を聞かせてください。
柴田 私が大学3年の時、大学選手権の決勝戦が同志社と慶応で行われたのですが、その試合を東京ガスの人事部長が見て、ラグビーをやっている選手の面構えがいい、うちの会社のラグビー部も強化しようという気持ちになったそうです。それがきっかけで大学のラグビー部から人材を獲得するようになったのです。私もそれで勧誘されました。その後、有名な選手が次々に入ってきて、東日本社会人リーグに所属して全国社会人大会に出るところまで強くなりました。私は引退後も副部長などを務めて関わりました。私のように高校、大学時代にレギュラーではなかった選手でも、ずっとラグビーに関わり、スーパースターとも話ができるようになる。ラグビーの素晴らしさだと思います。人脈も広がり、それが仕事に生きました。

村上 ラグビーという競技の良さは、どんなところに感じますか。
柴田 ラグビーをしていた人材を採用したい企業は多いと思います。大勢でやるチームスポーツであり、いろいろな体格、性格、スキルを持った人がいます。それをどうマネージメントしていくかという経験をした学生は、企業側も頼もしいでしょう。多少のことではへこたれないし、体力もあり、精神的にも強いですから。

村上 ラグビーの経験は社長として社員を引っ張るときにも役立っていますか。
柴田 ラグビーはスーパースター一人では勝てません。チームの一人一人が特性を生かし、ベストを尽くしながらチームが出来上がっていくという経験が役立っています。私も社長としてみんなに手伝ってもらって仕事をしています。チーム全体で協力して何かを成し遂げたときはみんなで喜べます。社長が言ったからと仕方なくついていって成果が出ても喜べない。来年度の中期経営計画を作ったのですが、それも会社の中でチームをいくつかに分けて、全員で自分たちの会社のことを考えてもらいました。他人ごとではなく、自分たちで目標を達成していかなくてはいけないと思ってくれているでしょう。

村上 今後の仕事上の目標はありますか。
柴田 紙離れが進んでいることもあって、現在はWEBに力を入れています。WEBは一日に何回も更新できます。その良さを生かし、よい記事を出し、業界以外の方にも読んでおきたいと思われるような新聞にしていきたいです。

村上 ラグビーにはどのように関わっていきますか。
柴田 私は慶応のマネージャー担当コーチを務めています。実は私が大学3年のときに上田さんが慶応で初めてマネージャー担当コーチを作りました。マネージメントがしっかりしていないとチームが強くならないという思いがあったようです。それから連綿と続いています。そろそろ後進に道を譲ろうと思っていますが、今年は慶應義塾のラグビーが125周年です。つまり、日本ラグビーの歴史が125年です。強化は簡単ではありませんが、伝統校として何か皆さんに見せられるものがあると良いなと思っています。

村上 では、最後にラグビーをしている子供達や保護者の皆さんにメッセージをお願いします。
柴田 私は高校からラグビーを始めましたが、そのあともラグビーを続けて本当に良かったと思っています。辛いことに打ち勝つ強い心、丈夫な体、生涯の仲間を作ることができました。ラグビーは怪我がつきもので、練習もハードですが、長く続けることで必ず得るものがあります。ぜひ長く続けて、良い仲間を作ってください。


柴田陽一
株式会社ガスエネルギー新聞代表取締役社長 
慶応義塾大学ラグビー部 
1986年東京ガス入社 
2007年東京ガスラグビー部部長就任 
2018年東京ガス秘書部長、地域企画部部長、広報部長就任後東京ガスコミュニケーションズ株式会社代表取締役社長 
慶応大学ラグビー部ではマネジメントコーチを上田昭夫監督、田中真一監督、栗原徹監督時就任



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