【インタビュー】 株式会社ガスエネルギー新聞代表取締役社長 柴田陽一様 〜その1~


大学1年生のとき、選手から覚悟の転身
日本一のマネージャーを目指す

村上 このコーナーでは、ラグビーに出会ったことによってその後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。今回のゲストは慶應義塾大学蹴球部(ラグビー部)OBで、ガスエネルギー新聞代表取締役社長の柴田陽一さんです。まずは、ガスエネルギー新聞についてお伺いできますか。
柴田 日本で唯一のガス業界紙です。電力会社は北海道から沖縄まで大手は10社ですが、ガス会社は200社ほどあります。皆さんご存知なのは東京ガス、大阪ガスだと思いますが、他にも全国に多数散らばっています。ガスエネルギー新聞は週刊で関係事業者にお配りをしているものです。私は昨年の4月に着任しましたが、もともとは東京ガスの社員で、昨年の3月まで東京ガスコミュニケーションズの社長を3年間務めていました。

村上 ラグビーとの出会いを聞かせてください。
柴田 私は高校からラグビーを始めました。父はラグビーの元日本代表で、私が中学2年生の頃は慶応大学ラグビー部の監督を務めていました。そのシーズンの早慶戦で早稲田の関東大学対抗戦の連勝記録を60でストップすることができました。私は桐蔭学園中学に通っていて、高校から慶応なのですが、ラグビーでは父を超えられないと感じて、違うスポーツをしようと思っていたのですが、慶応高校のラグビー部が強くて、同期からも誘われ、入部しないと学内にいられない気がして始めました。

村上 慶応で高校からラグビーを始めるのは大変だったのではないですか。
柴田 小学校からラグビーをしている先輩や同期も多くて練習もハードでした。辞めたいと思ったのですが、辞めたら学校にいられない気がして、歯を食いしばって3年間続けました。仲間と過ごす時間は楽しかったですね。

村上 そして、大学でも続けられたわけですね。
柴田 大学ではラグビーをしないつもりでした。高校ではレギュラーになれませんでしたから。しかし、当時はラグビーブームだったこともあって、慶応高校のラグビー部も大学に進学するとみんなラグビーを続けていました。辞めるのはもったいない気がしてきて、続けることにしました。

村上 1982年の入学ですよね。当時、テレビで慶応大学ラグビー部のドキュメンタリーが放送されて、憧れたのを覚えています。
柴田 「されど、熱き魂は戦う」というドキュメンタリーで、日本テレビが一年間ラグビー部を追ったものでした(1983年放映)。打倒早稲田の一年を追いかけてもらったのですが、結果的には12-24で早慶戦に負けました。それでも反響は大きかったです。

村上 ポジションの変遷を教えてください。
柴田 高校生の時はWTBだったのですが、途中からSHになりました。私は小学生の頃、大学4年生だった上田昭夫(故人、元日本代表SH)に憧れていまして、父に頼んでサインをもらっていたほどです。上田さんは私が高校3年生の時に慶応高校のコーチになられて、私が大学1、2年生のころは大学のコーチで、3、4年生は監督でした。

村上 ラグビーを経験したことで、ご自身に変化はありましたか。
柴田 ありました。中学までは強い運動部にいたことがなかったのですが、高校は神奈川県で一、二を争う強さで、厳しさに耐え、克服していく経験をしました。そして、自分たちよりも強いチームと戦うとき、その差をどう埋めるのかを考えていくことも学びました。

村上 大学ではマネージャーを務められたということですが、どの時点で選手からマネージャーに移行したのですか。
柴田 当時は秋の早慶戦(11月23日)の前に、1年生のなかでマネージャーを作らなくてはいけなくて、夏合宿が終わって同期と話し合いました。みんな黒黄のファーストジャージーを着たいと思って入部しています。マネージャーになるということは、それをあきらめることになります。なかなか決まらなかったのですが、上の学年を見ていると、マネージャーがしっかりしているとその代が締まる。そして、1年生からマネージャーをしていると、大学4年生ではチーフマネージャー(主務)になります。キャプテン、副キャプテンとともにチームを率いる存在になるわけです。そう考えるとやり甲斐があると感じました。私は同期にこう言いました。「僕はマネージャーを務めることで、黒黄のジャージーを着ることは諦める。その代わり、チームが優勝できるよう、常にチームのため、そして選手のみんながベストコンディションで試合や練習に臨めるように考え行動する。だから僕の言うことには従ってほしい。従ってくれないのであれば、マネージャーはすぐに辞める。みんなが日本一を目指すように、僕は日本一のマネージャーを目指す」

村上 その言葉だけで、同期の選手たちは気持ちが引き締まったでしょうね。
柴田 今はトレーナーや分析係など多数のスタッフがいますが、当時はコーチ以外のスタッフはマネージャーだけでした。マネージャの仕事は多岐にわたります。公式戦のスケジュールを決めるのは各大学の主務(マネージャー)会議でしたし、OBに会報を配り、会費を徴収する役割もありました。そんな仕事のかたわら、グラウンドにも立ち、選手一人一人のプレーや状態を見て、声を掛け、鼓舞し、ケガの予防や再発防止のためのテーピングの巻き方も学びました。試合に出られないメンバーにも声を掛け、鼓舞することで、マネージャーの存在意義は下級生にも伝わり、試合に出られないメンバーも必死に声をからして応援してくれました。それが、4年生時の日本選手権優勝に繋がったと感じています。上に立つ者が組織全体に目を配り、コミュニケーションを取っていくことが、一人一人のやる気や団結力に繋がり、結果的に組織力を向上させることができる。ラグビーを通じて学んだことの一つです。

村上 柴田さんがチーフマネージャーだった大学4年生時に、日本一になりますよね。そのプロセスで学んだことはありますか。
柴田 上田昭夫監督は戦略家でした。チームの雰囲気をどう変えるかということも学びましたし、対戦相手の分析も細かくマネージメントします。体調管理にも厳しかったです。私も部員に規律を守らせるため、かなり厳しく言っていました。怖いマネージャーだったと思います。


柴田陽一
株式会社ガスエネルギー新聞代表取締役社長 
慶応義塾大学ラグビー部 
1986年東京ガス入社 
2007年東京ガスラグビー部部長就任 
2018年東京ガス秘書部長、地域企画部部長、広報部長就任後東京ガスコミュニケーションズ株式会社代表取締役社長 
慶応大学ラグビー部ではマネジメントコーチを上田昭夫監督、田中真一監督、栗原徹監督時就任



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