【インタビュー】 株式会社集英社 廣野眞一 代表取締役社長〜その2〜


宣伝部では『鉄道員』、『女たちのジハード』を担当。
早稲田大学のコーチも5シーズン続けた。


村上 在学中に出場した早明戦は何勝何敗か覚えていますか。
廣野 1勝2敗です。2年生の時は大学選手権でも明治に勝って、日本選手権では新日鉄釜石に負けました。釜石が初優勝したときです(昭和52年1月15日)。私のポジションはほとんどセンターでしたが、この時はウイングで出場しています。

村上 大学卒業後もラグビーを続けようとは思わなかったですか。
廣野 いくつかの社会人チームから誘っていただきましたし、ラグビーが嫌いになったわけではありません。高校生のころから出版の仕事をしたいと思っていたので、それが諦められずに集英社を受験しました。

村上 高校生の頃に出版の仕事を志すというのは、何かきっかけがあったのでしょうね。
廣野 本が好きでした。文芸書をメインに扱っている出版社に行きたかったのですが、先輩に勧められたこともあって集英社を受けました。集英社は当時雑誌が強くて、男性誌ではプレイボーイ、女性誌ではノンノ。このほか、明星、少年ジャンプ、マーガレットなど雑誌が強かったです。もちろん、集英社は書籍でも良い仕事をしていました。

村上 編集者ではなかったのですね。
廣野 出版に携わることができればなんでも良かったので、面接でもそう話しました。最初は広告部で、それから宣伝部に行きました。

村上 どんな本を担当されたのですか。
廣野 雑誌宣伝のときは、プレイボーイの日本版、別冊マーガレット、週刊明星、月刊明星、いろいろなものをやりました。のちに書籍の宣伝を10年ほどやりました。『鉄道員』(浅田次郎・著)、『女たちのジハード』(篠田節子・著)が集英社で初めて直木賞を同時に取った時に担当していました。

村上 ラグビーをしていたことが、仕事に生きたことはありましたか。
廣野 ラグビーそのものではなく、人の財産は生きました。ラグビー仲間に仕事上で助けてもらうことが多いです。ラグビーのつながりにチームの違いは関係がありません。

村上 大学卒業後はラグビーとは関わらなかったのですか。
廣野 エーコンクラブという伝統あるチームに入りました。大学を卒業して2年目から早稲田大学のラグビー部でコーチもしました。大西鐵之祐さんが監督に就任されたときです(昭和56年度)。それから5年やりました。

村上 仕事とのやりくりが大変だったでしょうね。
廣野 土曜、日曜はすべてコーチで時間を使いました。上司には「会社に迷惑はかけません」と話していたし、仕事が休みの日にしか行かない前提でした。でも、シーズンが深まって早慶戦とか早明戦の前になると気になるんですよ。そんな時はスーツのまま東伏見グラウンド(現在の練習グラウンドは上井草)に行っていました。2時間くらいコーチをして会社に戻ってくると革靴が真っ白(笑)。さっと拭いて素知らぬ顔で仕事をしました。会社から東伏見にいくときは、行き先を書くボードに「H」と書く。私のいた部では、Hは、通常は博報堂です。上司には「僕が行くときは漢字で博報堂と書きます。Hは東伏見です」と伝えていました(笑)。

村上 早稲田の選手で言うと、誰の代までですか。
廣野 堀越正巳、今泉清、藤掛三男の1年生トリオのシーズンは、コーチを辞めた翌年です。木本建治監督で優勝しましたよね。ラグビー部の仲間からは、「勝因はお前がコーチを辞めたことだ
と言われました。説得力がありますよね(笑)。
【プロフィール】廣野 眞一/ひろの・しんいち 株式会社集英社・代表取締役社長。1956年生まれ、65歳、大阪府出身。早稲田大学教育学部教育学科卒業。1979年入社。書籍宣伝課課長、広報室部長代理、広告部部長、宣伝部部長、コンテンツ事業部部長などを歴任。2013年8月役員待遇、2014年8月取締役、2016年8月常務取締役、2019年8月専務取締役就任。2020年8月より現職。

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