【インタビュー】社会で活躍するラガーマン 大和ハウス 芳井敬一 代表取締役社長〜その1〜


高校に野球部がなくて、ラグビー部へ
大阪市選抜のキャプテンを務める


村上 このコーナーでは、ラグビーを経験したことによって、その後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。今回のお客様は、大和ハウス工業株式会社代表取締役社長の芳井敬一(よしい・けいいち)さんです。芳井さんは、大阪府立大和川高校でラグビーを始められたそうですが、その前に他のスポーツはされていたのですか。
芳井 私は中学まで野球をしていまして、甲子園に憧れ、野球をしようと思って高校に進学しました。ところが、あろうことか大和川高校には野球部がなかったのです。最初に調べておかないとダメですよね(笑)。事前に学校の見学には行きました。すごく広いグラウンドで、こんなところなら野球も思い切りできると思ったものです。当時は野球部のない学校は珍しかったですから。

村上 なぜラグビー部に入ることになったのですか。
芳井 私が中学生(大阪市立生野中学)の頃、ラグビー部が近畿大会で準優勝しまして、同級生が大阪工大高(現・常翔学園高校)にスカウトされて何名か進学しました。彼らの試合を応援に行ったこともありますし、ラグビーがどんなスポーツかは知っていました。決め手は、生野中学の先輩が大和川高校のラグビー部にいて、「お前も入れや」と言われたことです。怖くて入部しました。

村上 ラグビーは楽しかったですか。
芳井 人数の足りない部で、入学してすぐに試合に出ていましたね。そのときは、14番のウイングで出場しました。足は速かったんですよ。ポジションは2年生でフランカー、3年生でナンバーエイトです。ただ、エイトとはいっても、当時はスクラムを7人で組むことが許されていたので、フルバックが2人いるようなポジションでした(※現在は15人制のスクラムは8人で組まなくてはいけない)。

村上 今は消滅したセブンエイスというポジションですね。
芳井 そう、セブンエイスです。サインプレーではよくボールを持ちました。

村上 高校時代は大阪代表のキャプテンだったそうですね。
芳井 大阪代表には2つあります。あの頃は体育の日(10月10日)に大阪のラグビーカーニバルがあって、高校の大阪市選抜と大阪府選抜の試合もあったのです。府選抜の中心は近大付属、浪商、市選抜は大阪工大高、大和川、天王寺あたりでした。私は市内選抜のキャプテンを務めました。生野中学から大阪工大高に行った同級生と同じチームでプレーできて嬉しかったですよ。「お前、よう頑張ったな」と言われました。

村上 高校3年間のどのあたりで、大学でもラグビーを続けようと思ったのですか。
芳井 最初からラグビー部の監督がその気でした(笑)。「うちの高校から行ける大学はこのあたり。勉強したら行ける」、「ラグビーやったら、ここの大学が行ける可能性があるぞ
と選択式みたいで(笑)。でも、監督に進路を描いていただいたおかげで進学できましたし、足を向けて寝られないですよ。

村上 教員志望だったそうですね。
芳井 父親が小学校の教員をしていた時期があり、私も子どもの頃から小学校の教員になるように教育されました。中央大学のラグビー部のセレクションを受け、教員養成課程のある学部に入学しました。

村上 当時の監督はどなたですか。
芳井 私が大学2年目から元日本代表ナンバーエイトの村田義弘さんが就任されました。非常に厳しい監督で、なかなか認めてもらえませんでした。一軍から三軍に落とされることもありましたね。でも、それがとてもいい勉強でした。

村上 ラグビーをしたことによって、自分の中に何か変化はありましたか。
芳井 ひとつは、やり遂げたいという気持ちが芽生えました。そして、レギュラーになれなかったら大学を辞めるという線を引いて、それに対して努力をする、頑張るという覚悟ができました。

村上 しかし、教員にはならなかったのですね。
芳井 大学4年生のときに怪我をして1試合しか出られませんでした。消化不良のままでは終わりたくなくて、小学校の教員免許取得のために予定していた大学への編入を取りやめ、神戸製鋼でラグビーをすることにしたのです。当時、神戸製鋼は関西で3位くらいの実力でした。

村上 そこで刺激を受けたようですね。
芳井 同期入社のチームメイトには、同志社大学で学生日本一になった菅野有生央、慶應義塾大学のキャプテンだった東山勝英らがいました。彼らのラグビーに取り組む姿勢を見て、目指すものの違いを感じました。勝つべくして勝った人たちなのだと思いました。

~つづく
芳井敬一 
大阪府立大和川高等学校(現・大阪府教育センター附属高等学校)でラグビー部入部、高校大阪市代表のキャプテンを務める、中央大学ラグビー部、神戸製鋼ラグビー部に所属。  神戸製鋼グループの神鋼海運退社後1990年大和ハウス工業入社、神戸建築営業所長をはじめ、姫路支店長、金沢支店長を経験した後、執行役員、上席執行役員、海外事業部長、取締役常務執行役員、東京本店長、取締役専務執行役員、営業本部長などを歴任し、2017年11月1日付けで代表取締役社長に就任。


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