第14回ヒーローズカップの実行委員に聞く

実行委員インタビュー 岡本輝明氏
 

深尾:岡本さんのラグビーとの出会いを教えてください。
岡本:関西創価中学3年の時にサッカー部に所属していましたが、ラグビー部に仲のいい友達がいてラグビー部の雰囲気も良さそうなのでラグビー部に移りました。中三の夏からラグビー部に入り関西創価高校でも続けました。高校3年では大阪の新人戦で優勝しました。花園には行けませんでしたが1995年の大阪大会において僅差で敗れた大阪工業大学高等学校は、その年圧倒的な強さで全国優勝しました。大学は近畿大学に進み、1回の試合(ケガで欠場)を除いて全試合にジャージを着た事が自慢です。また副キャプテンとして100名以上いる部員と関われた事は財産になっています。中学3年でラグビー部に移っていなかったら、近大にも行ってないだろうし、人生はまったく別なものになっていたと思います。今でも付き合っている、あの時ラグビー部に誘ってくれた友達に感謝しています。
 
深尾:ヒーローズカップと関わるようになったのはいつからですか。
岡本:大阪のラグビー酒場「マーラー」でクラブチームの打上げをしている時に、その店のオーナーである南野利行さんと出会い、その南野さんが「マーラーカップ」と言う大阪のラグビースクールを集めて小学6年生の大会を主催している人でした。仕事が印刷業をしていたために、パンフレット作成の、お手伝いをするようになりました。その「マーラーカップ」が翌年から「ヒーローズカップ」と名前を変え、主催もNPOヒーローズになりましたが
そのまま印刷のお手伝いは続けていました。その時に南野さんが、俺がやるより元日本代表の林敏之さんがやった方が、「マーラーカップ」は早く大きくなり全国大会になるから、林さんに託す、と言った事に感動した事を覚えています。そんな中で印刷だけでなく、試合会場の運営のお手伝いをするようになりました。南野さんは「ヒーローズカップ」になってからも試合会場の運営を仕切っていましたが、8回目の時に副実行委員長に指名されてからずっと続いています。
 
深尾:ヒーローズカップ運営で感じる事はありますか。
岡本:京都のキューイズ対吹田ラグビースクールの試合に感動しました。この2チームは常に勝ったり負けたりの試合を繰り広げていましたが、ヒーローズカップで決着が着いた試合で負けたチームも勝ったチームの選手も指導者も泣いている姿を見て、ヒーローズカップに携われる事に喜びを感じるようになりました。勝ったチームが負けたチームの選手に、「お前たちの分も頑張るわ」と、6年生の子が言っているシーンに驚かされました。ヒーローズカップの原点を見たような気がしました。この様な場を設ける事にやりがいを感じています。
 
深尾:新型コロナウイルスで運営は大変と思いますがコロナ対策の責任者として、どう取り組まれますか。
岡本:昨年は何とか地方大会だけでもやりたいと思って取組みました。個人的には決勝大会の開催は厳しいだろうと思っていました。「やる」と言う強い思いをもったスタッフに、やるには、どうすればできるかを考えて欲しいと言われ、真剣に取り組みました。宿泊を伴い、北海道や九州から遠征してくるチームを、どうやって守るか、考えに考えて対応しました。決勝に参加したチームの子どもたちは、いい経験をして帰れたのではないかと思いますし、大人が決断して開催し、感染者を出す事なく終われた事に安堵しています。今年度も出来る限りの対策をしたく思っています。感染者も減少して社会の雰囲気も和らいでいるように感じますが、さらに気を引き締めて不織布マスクを徹底するとか、観客制限するとかの、出来うる限りの対策を講じてまいります。
 
深尾:大会運営でのご苦労はありますか。
岡本:川嶋さんの負担が大きすぎるのではと心配しています。ただ、川嶋さんは、その負担に真っ向受けて立たれているので、私たち実行委員も頑張るしかありません。恐ろしい数のメールが飛び交っています。子どもたちのために、頑張っていくしかありません。 □川嶋信彦さんは実行委員会で統括を担当
 
深尾:来年は15回を迎える「ヒーローズカップ」、まずは14回の無事の終了を願っています。
岡本:ありがとうございます。

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