「Half Time」あの頃の君へ 〜中村 亮土〜
ハーフタイム、それは過去と未来が交わる時間。いくつもの喜びや悔しさを味わった今だから伝えられる言葉がある。写真の中の幼い頃の自分へ声をかけるなら──。楕円球を追いかけるトップアスリートからのメッセージ。
「もっと!」は夢への扉を開く鍵
サッカーに夢中だった幼少期の写真を手にする中村亮土
「もっとうまくなりたい。その気持ちをいつまでも」。写真の中のあどけない少年に向かって、ラグビー日本代表のCTB・中村亮土(東京サンゴリアス)が微笑む。
もっとうまく。パスもタックルもランも…、その思いはプレーに限らない。ラグビーには自分の思いを伝えるためのコミュニケーションスキルも大切だ。ときには失敗もあるだろう。でも大丈夫、自ら考え行動した先には確かな答えがきっとある。
もっともっと、さらなる高みへと登り続けたい。「向上心」こそ中村のエンジンだ。
一言で言えば、田舎のわんぱく小僧ですよ。アニメ「キャプテン翼」に夢中だった姉の影響で地元のサッカーチームへ入団。ボールを追いかけるのが楽しくて、1日中外で駆け回ってるような少年でした。小学5年の時にはサッカーW杯日韓大会が開催され、日本中がサッカーで大盛り上がり。当時の僕はブラジル代表が好きで、ロベカル、ロナウジーニョ、リバウドなどに憧れてました。勢いそのままにサッカーは中学卒業まで続けました。
僕と楕円球との出会いは遅かった。進学した鹿児島実業高校でプレーしたのが始まりです。実はラグビーが大好きだった父親からはずっとラグビーをやらないかと口説かれてはいました。リーグワンの前身に当たるトップリーグが鹿児島で開催されると、必ず父親にスタジアムへと連れて行かれ「どうだ!?ラグビーっておもしろいだろ」と…、でも当時の僕はサッカーに夢中だった。
父親はどうしても僕にラグビーをやってほしかった。ただ、当時の鹿児島にはラグビースクールの数も少なく、試合や練習の機会も限られていました。体を動かすという点から考えると、サッカーの方がチャンスは多いと思った両親はサッカー小僧だった僕を全力で応援してくれました。やりたいようにさせてもらった。だから父の「高校になったらラグビーを」との願いを素直に受け入れられたように思います。
高校に進学、はじめての楕円球に最初は戸惑いました。でもやってみたらめちゃくちゃ面白かった。当たる、走る、投げる、蹴る。いろんな選択肢がラグビーのプレーにはある。自ら考え、表現するスポーツなんだと感じました。それにサッカーのおかげでキックが得意だったこともあり、それが自然と僕のプレーの強みにもなっていました。
練習前や後のわずかな時間でも、可能な限り練習していました。「もっとうまくなりたい」。強い意思を持って毎日トレーニングしていました。
トレーニングを重ねるごとに体はぐんぐんと大きくなっていった。成長…、そういう意味では身体よりも心の成長の方が大きかったですね。中学生の頃はチームメートのミスによくイラだったり怒ったりしていました。でもラグビーをプレーする中で仲間や対戦相手へのリスペクトを自然と持つようになりました。ラグビーは個性の集まり。それぞれの良いところを出し合わないと勝てない。
「大丈夫、次行こう」「オッケイ!」
試合中のミスを悔やんでも仕方がない。次の展開に向けて僕らは今なにができるか。自然と良い方へと気持ちを切り替える力を得られた気がします。どうすれば仲間の心に火を灯せるか。それぞれの個性を理解し、意識的に声をかけるようにしていました。心も身体も強くなっていくと自然と結果もでるように。高校2年、3年の時には全国大会出場を果たすことができました。
でも、花園には良い思い出はないですね。2年の時は県大会の決勝で怪我をし、僕自身は花園のピッチには立てなかった。3年の時は国学院栃木を相手に後半2点差と迫り、決めれば逆転というPGを僕が外して負けた。
花園での勝利は遠かった。でも全国の強豪校との差は感じなかった。むしろずっと近く感じた。「もっともっとうまくなりたい」。そう願って帝京大へと進学、無我夢中で練習しました。大学生として迎えた初めての冬、秩父宮で行われた早稲田大との対抗戦第5戦のピッチに立った時、観客席に両親の姿を見つけました。校歌斉唱の時、父親は涙ぐんでいました。その時、はじめて「ちょっと親孝行できたかな」と感じました。
苦しみを乗り越えてつかんだ自信
U20、ジュニアジャパン、そして大学3年で練習生として第1期エディーJAPANに召集されました。翌年には念願の日本代表としてファーストキャップ。帝京大では主将として大学日本一を手にしました。卒業後は東京サンゴリアスへ。すべてがうまくいっているように思えますが、実は僕的には苦しい時期でもありました。
日本代表合宿には呼ばれたけれどベンチ外が長く続いた。サンゴリアスでは試合に出てもなかなか結果が残せない。どうすればいいんだ、と悩みました。本当に苦しくてラグビーを辞めようと考えた時期もありました。
自分に足りないものは何か。もがき苦しむ中、全部うまくやろうと思う考え方を捨て、ひとつの強みに絞りました。僕にとってそれはタックルだった。全体トレーニングの後、先輩に付き合ってもらい納得するまで体をぶつけました。タックルに自信がつくと、パスにもランにも自信が持てるようになった。
思い通りのプレーができるようになるとまた日本代表に呼ばれるようになった。そして2019年の日本大会、2023年のフランス大会、目標だったW杯のピッチに立つことができた。もっとうまくなりたい。そう思い続けた先に夢の舞台への扉が開いた。
今、楕円球を追いかける君へ
ヒーローズカップのバイスコミッショナーとしてラグビーキッズたちのプレーを見守る中村亮土(左)。中央は大会実行委員長の大野均氏、右は観戦に訪れたクボタスピアーズ船橋・東京ベイの立川理道選手
いろいろな個性の集まりであるラグビーはお互いの思いを伝えることが何よりも大切です。僕がそのことを強く感じたのが高校2年で経験したオーストラリア遠征でした。鹿児島県代表としてパースの高校生と試合をした時のことです。
正直、英語が苦手で…試合後に行われるアフターマッチファンクション(交流会)が不安の種でした。でもラグビーって不思議ですよね。体をぶつけ合った後だと不思議と打ち解け合える。僕も知ってる英単語を並べ、自分の思いを伝えたいという気持ちが自然と芽生えた。拙い英語でしたが、試合の感想が相手に伝わると「ああ、そうだよな。あのタックルすごかったよな」という具合に相手が笑ってくれた。
外国人というだけで、同じ人間なんだ。同じように笑って、泣いて、喜ぶ仲間なんだと感じた。今では当たり前ですが、それも体験したからわかったこと。それからは自分の思いを伝えることに積極的になれた。今、僕は選手として活動するとともに子どもたちへの留学機会をプランニングする会社(Big Dream)も営んでいます。行き先はニュージーランド。海外でのプレーを通してラグビースキルはもちろん、コミュニケーションスキルも一緒に磨いてほしいとの願いです。
日本代表やサンゴリアス、今も外国にルーツを持つ多くの仲間たちと一緒にラグビーをプレーしています。その中で一番大切なこと。それは自分の思いを伝えることです。大丈夫、伝えたいという熱い思いがあれば必ず伝わります。
そしてこれからラグビーを始めるかもしれない君へ。ラグビーはみんなが活躍できるスポーツ、足の速い子、遅い子、背の高い子、低い子、それぞれ輝くポジションがある。始めるのが遅いなんてことはない。「うまくなりたい」。そう強く思ってプレーすればきっと夢への扉が開くはず。
中村 亮土 プロフィール
1991年生まれ。鹿児島県出身。身長182センチ、体重95キロ。日本代表キャップ数33。ポジションはセンター(CTB)。高校、大学ではSO(スタンドオフ)としてプレー。得意なプレーはタックル。ニックネームは「りょうと」。幼いころの夢はパイロット。※東京サンゴリアスHPより

ハーフタイム、それは過去と未来が交わる時間。いくつもの喜びや悔しさを味わった今だから伝えられる言葉がある。写真の中の幼い頃の自分へ声をかけるなら──。楕円球を追いかけるトップアスリートからのメッセージ。
「もっと!」は夢への扉を開く鍵

「もっとうまくなりたい。その気持ちをいつまでも」。写真の中のあどけない少年に向かって、ラグビー日本代表のCTB・中村亮土(東京サンゴリアス)が微笑む。
もっとうまく。パスもタックルもランも…、その思いはプレーに限らない。ラグビーには自分の思いを伝えるためのコミュニケーションスキルも大切だ。ときには失敗もあるだろう。でも大丈夫、自ら考え行動した先には確かな答えがきっとある。
もっともっと、さらなる高みへと登り続けたい。「向上心」こそ中村のエンジンだ。
「やりたいように」、それが良かった。思いに応えたいと選んだラグビーへの道
運動は得意、でもクラスで1番ではなかった。短距離も長距離もいつも2、3番手。「負けたくない」と父親とともに坂道ダッシュで足腰を鍛えた

一言で言えば、田舎のわんぱく小僧ですよ。アニメ「キャプテン翼」に夢中だった姉の影響で地元のサッカーチームへ入団。ボールを追いかけるのが楽しくて、1日中外で駆け回ってるような少年でした。小学5年の時にはサッカーW杯日韓大会が開催され、日本中がサッカーで大盛り上がり。当時の僕はブラジル代表が好きで、ロベカル、ロナウジーニョ、リバウドなどに憧れてました。勢いそのままにサッカーは中学卒業まで続けました。
僕と楕円球との出会いは遅かった。進学した鹿児島実業高校でプレーしたのが始まりです。実はラグビーが大好きだった父親からはずっとラグビーをやらないかと口説かれてはいました。リーグワンの前身に当たるトップリーグが鹿児島で開催されると、必ず父親にスタジアムへと連れて行かれ「どうだ!?ラグビーっておもしろいだろ」と…、でも当時の僕はサッカーに夢中だった。
父親はどうしても僕にラグビーをやってほしかった。ただ、当時の鹿児島にはラグビースクールの数も少なく、試合や練習の機会も限られていました。体を動かすという点から考えると、サッカーの方がチャンスは多いと思った両親はサッカー小僧だった僕を全力で応援してくれました。やりたいようにさせてもらった。だから父の「高校になったらラグビーを」との願いを素直に受け入れられたように思います。
大きくなった心と身体。相手を思う気持ちが自然と芽生えた
鹿児島実業高では3年時に主将を務めた。ともに汗を流した仲間たちは一生の宝物

高校に進学、はじめての楕円球に最初は戸惑いました。でもやってみたらめちゃくちゃ面白かった。当たる、走る、投げる、蹴る。いろんな選択肢がラグビーのプレーにはある。自ら考え、表現するスポーツなんだと感じました。それにサッカーのおかげでキックが得意だったこともあり、それが自然と僕のプレーの強みにもなっていました。
練習前や後のわずかな時間でも、可能な限り練習していました。「もっとうまくなりたい」。強い意思を持って毎日トレーニングしていました。
トレーニングを重ねるごとに体はぐんぐんと大きくなっていった。成長…、そういう意味では身体よりも心の成長の方が大きかったですね。中学生の頃はチームメートのミスによくイラだったり怒ったりしていました。でもラグビーをプレーする中で仲間や対戦相手へのリスペクトを自然と持つようになりました。ラグビーは個性の集まり。それぞれの良いところを出し合わないと勝てない。
「大丈夫、次行こう」「オッケイ!」
試合中のミスを悔やんでも仕方がない。次の展開に向けて僕らは今なにができるか。自然と良い方へと気持ちを切り替える力を得られた気がします。どうすれば仲間の心に火を灯せるか。それぞれの個性を理解し、意識的に声をかけるようにしていました。心も身体も強くなっていくと自然と結果もでるように。高校2年、3年の時には全国大会出場を果たすことができました。
でも、花園には良い思い出はないですね。2年の時は県大会の決勝で怪我をし、僕自身は花園のピッチには立てなかった。3年の時は国学院栃木を相手に後半2点差と迫り、決めれば逆転というPGを僕が外して負けた。
花園での勝利は遠かった。でも全国の強豪校との差は感じなかった。むしろずっと近く感じた。「もっともっとうまくなりたい」。そう願って帝京大へと進学、無我夢中で練習しました。大学生として迎えた初めての冬、秩父宮で行われた早稲田大との対抗戦第5戦のピッチに立った時、観客席に両親の姿を見つけました。校歌斉唱の時、父親は涙ぐんでいました。その時、はじめて「ちょっと親孝行できたかな」と感じました。
苦しみを乗り越えてつかんだ自信

「苦しい時期があったからこそ今がある」と過去を振り返る中村
U20、ジュニアジャパン、そして大学3年で練習生として第1期エディーJAPANに召集されました。翌年には念願の日本代表としてファーストキャップ。帝京大では主将として大学日本一を手にしました。卒業後は東京サンゴリアスへ。すべてがうまくいっているように思えますが、実は僕的には苦しい時期でもありました。
日本代表合宿には呼ばれたけれどベンチ外が長く続いた。サンゴリアスでは試合に出てもなかなか結果が残せない。どうすればいいんだ、と悩みました。本当に苦しくてラグビーを辞めようと考えた時期もありました。
自分に足りないものは何か。もがき苦しむ中、全部うまくやろうと思う考え方を捨て、ひとつの強みに絞りました。僕にとってそれはタックルだった。全体トレーニングの後、先輩に付き合ってもらい納得するまで体をぶつけました。タックルに自信がつくと、パスにもランにも自信が持てるようになった。
思い通りのプレーができるようになるとまた日本代表に呼ばれるようになった。そして2019年の日本大会、2023年のフランス大会、目標だったW杯のピッチに立つことができた。もっとうまくなりたい。そう思い続けた先に夢の舞台への扉が開いた。
今、楕円球を追いかける君へ

いろいろな個性の集まりであるラグビーはお互いの思いを伝えることが何よりも大切です。僕がそのことを強く感じたのが高校2年で経験したオーストラリア遠征でした。鹿児島県代表としてパースの高校生と試合をした時のことです。
正直、英語が苦手で…試合後に行われるアフターマッチファンクション(交流会)が不安の種でした。でもラグビーって不思議ですよね。体をぶつけ合った後だと不思議と打ち解け合える。僕も知ってる英単語を並べ、自分の思いを伝えたいという気持ちが自然と芽生えた。拙い英語でしたが、試合の感想が相手に伝わると「ああ、そうだよな。あのタックルすごかったよな」という具合に相手が笑ってくれた。
外国人というだけで、同じ人間なんだ。同じように笑って、泣いて、喜ぶ仲間なんだと感じた。今では当たり前ですが、それも体験したからわかったこと。それからは自分の思いを伝えることに積極的になれた。今、僕は選手として活動するとともに子どもたちへの留学機会をプランニングする会社(Big Dream)も営んでいます。行き先はニュージーランド。海外でのプレーを通してラグビースキルはもちろん、コミュニケーションスキルも一緒に磨いてほしいとの願いです。
日本代表やサンゴリアス、今も外国にルーツを持つ多くの仲間たちと一緒にラグビーをプレーしています。その中で一番大切なこと。それは自分の思いを伝えることです。大丈夫、伝えたいという熱い思いがあれば必ず伝わります。
そしてこれからラグビーを始めるかもしれない君へ。ラグビーはみんなが活躍できるスポーツ、足の速い子、遅い子、背の高い子、低い子、それぞれ輝くポジションがある。始めるのが遅いなんてことはない。「うまくなりたい」。そう強く思ってプレーすればきっと夢への扉が開くはず。
中村 亮土 プロフィール
1991年生まれ。鹿児島県出身。身長182センチ、体重95キロ。日本代表キャップ数33。ポジションはセンター(CTB)。高校、大学ではSO(スタンドオフ)としてプレー。得意なプレーはタックル。ニックネームは「りょうと」。幼いころの夢はパイロット。※東京サンゴリアスHPより
