【インタビュー】明治大学学長 大六野 耕作 〜その1〜

高校入学後に勧誘でラグビー部へ
プロップ一筋。押し勝つとたまらなく楽しかった

村上 このコーナーではラグビーと出会ったことによってその後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。今回のゲストは、明治大学長の大六野耕作(だいろくの・こうさく)さんです。大六野さんはいつラグビーに出会われたのですか。
大六野 高校(福岡県立筑紫丘高校)に入ったときです。それまで僕はテニスをやっていましてね。入学後、どの部に入ろうか迷っていたらラグビー部に勧誘されたんです。福岡県はラグビーの強い高校がたくさんありましたから、ラグビーというスポーツは知っていました。でもプレーしようと思ったことはなかったです。まあ、騙されたわけです。

村上 それでも続けられたわけですね。
大六野 体重が80㎏ほどありまして、当時としては大きかったんですよ。お前は、プロップが良いと言われて、そこからプロップ一筋です。ラグビー経験のない人間ですから、なかなか上手くはなりませんが、押すのは好きでした。首を鍛えて太くしましたね。高校も制限なく押し合う時代で、押し勝つとたまらなく楽しかったです。

村上 チームは強かったのですか。
大六野 当時は福岡県から全国高校大会に2チーム出場できたのですが、その一方のブロックで準決勝、決勝で負けるくらいですね。トライが3点の時代なのに、東福岡相手に80点くらい取ったこともありました。

村上 ラグビーと出会って、人生観が変わったようなことはありましたか。
大六野 進学校でしたから、3年生は春の九州大会が終わると引退するのが伝統でした。秋の全国大会予選のときは1、2年生だけで戦っていました。ただ、私が3年生のときは組み合わせによっては全国大会に行けるかもしれないという状況で、OBの人たちも力が入って、3年生を残さないと勝てないということになりました。それでも辞める生徒が多く、残った僕がキャプテンになりました。3年生は12、3人いましたが、秋まで続けたのは3人くらいでした。結局負けてしまったのですが、最後までやって良かったと思っています。2年生の時には、九州大会の地区予選決勝が修学旅行と重なったことがあります。最初はみんなで修学旅行に行こうって言ってたんだけど、結局、ラグビーを選びました。いざ試合が近づいてくると、このチャンスにやらなかったら後悔すると思ったんです。

村上 そのようにラグビーに熱中しながら、受験勉強もされて明治大学に合格されるわけですよね。
大六野 勉強していたということにしておきましょう(笑)。腰を痛めてしまって、大学ではラグビーは続けられませんでした。もっぱら、観戦のほうになりましたね。

村上 大学院に入ってから、ラグビーを再開されたそうですね。
大六野 大学院生の仲間とテレビで早明戦を見ていました。「いいよね、これ、やらない?
と言った院生がいました。「やらないって、お前、ラグビーやったことないだろう」と言ったら、「お前、やったことあるだろう」と。それで、『ラグビー経験者募集』の貼り紙をしたら、けっこう集まってきたんですよ。いま明治大学の教務担当理事をしている青野さんという方がいますが、この人はラグビー経験がないのに、やりたいと言ってきた。それでチームを作りました。

村上 明治大学大学院ラグビー(MGSRC)部ですね。
大六野 我々は形から入りますから(笑)、明治大学と同じジャージーにしようということになりました。さすがに無断ではダメだということで、代表者が八幡山の北島忠治監督のところにお願いに行きました。大学院の早明戦をやりたいです!と言うと、北島先生が「いいじゃないか」と言ってくれたそうです。ただ、大学のジャージーは肩に白い線が入っているから、それは真似せず、ボーダーの柄も少し太くして作ることになりました。多摩川の河川敷で練習していたら、リコーのラグビー部の人が「明治が来てるぞ!」って見に来たんですよ。近くに来たら、「あっ、違うわ」って(笑)。その後、人数が足りなくて一般の人も入れることになり、オープンなクラブチームになりました。今は活動を終了しています。

つづく〜
大六野 耕作(だいろくの・こうさく)
明治大学学長。1977年明治大学法学部卒業。同大学院政治経済学研究科博士後期課程単位修得退学。
専門は比較政治論。政治経済学部長や副学長(国際交流担当)等、数多くの要職を歴任。また、デューク大学、ノースイースタン大学、ラオス国立行政学院、ラオス国立大学でも教鞭をとるなど、国際的にも活躍。
1954年、福岡県生まれ。福岡県立筑紫丘高校時代はラグビー部で活躍。明治大学体育会ラグビー部の部長を長年務めた。


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