【インタビュー】 株式会社集英社 廣野眞一 代表取締役社長〜その1〜


初めて出場した練習試合で初トライ。
これは気持ちの良いスポーツだとハマった。


村上 このコーナーではラグビーを経験したことによって、その後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。今回のゲストは株式会社集英社代表取締役社長の廣野眞一さんです。まずは、廣野さんとラグビーの出会いから聞かせてください。
廣野 私はラグビーを始めたのが遅くて、大阪府立東淀川高校の2年生からです。それまでは野球をしていました。茨木市立養精中学の野球部は大阪府の大会で準優勝するほど強くて、高校からも野球で誘われたほどでした。ただ、腎臓の病気でお医者さんから運動を止められていて、高校入学後も野球部に誘われたのですが夏まで待ってもらいました。今から考えると生意気なのですが、入部したものの監督の指導方針に不満があって退部しました。部活には入らずに過ごしていたら、2年生になったとき、担任の先生がラグビー部の顧問だったんです。「体が良くなったのなら、ラグビー部に来いよ」と誘われました。何も知らずにラグビーを始めたわけです。

村上 野球が上手かったということは運動能力が高かったのでしょうね。
廣野 足は速かったし、運動能力は高かったです。入部して数日後にウイングの先輩が怪我をして、「廣野、出ろ」と。それを言われたのが水曜日で、木曜と金曜は練習せずにルールを教わりました(笑)。試合前に顧問に言われたのは、「ボールを持ったらゴールに向かって好きなように走れ。とにかく笛が鳴るまで走れ
です。その試合でトライをして「これは気持ちのいいスポーツだな」と、ハマってしまいました。

村上 相手はどこの高校だったのですか。
廣野 大阪府立北野高校との練習試合でした。人生初のトライです。僕が2年生の時はチームが強くて、当時の大阪は全国大会予選が2ブロックだったのですが、ベスト4まで行きました。その年に全国大会に出場したのは大阪工大高(現・常翔学園)、近大付属でした。3年生のときは早々に負けて、これでラグビーは終わりにしようと思っていました。

村上 しかし、早稲田大学に進学されましたね。
廣野 ラグビーとは関係なく、早稲田大学を目指していました。受験直前の1月15日にラグビーの日本選手権をテレビで見ました。それが、近鉄と早稲田大学の試合でした。

村上 1975年、日本選手権が初めて国立競技場で開催されたときですね。早稲田は石塚武生さんがキャプテンで、近鉄の坂田好弘さんの引退試合でした。
廣野 すごい試合だったので、これは大学に入ったらラグビー部に入ろうと思いました。合格してラグビー部の門を叩いたのですが、すぐになんと愚かな判断をしたのだろうと後悔しました。

村上 練習が厳しかったのですね(笑)。
廣野 毎日辞めようと思いましたよ。50人入部して残ったのは15人です。夏合宿前にみんな辞めてしまいました。

村上 ラグビーの何が面白かったのですか。
廣野 自分の運動能力に合っていたと思います。ルールは複雑ですけど、やることは単純です。ボールを持って走ればいいのですから。タックルも好きでした。僕はキャリアが浅いので、パスもキックも大学では一番下手なくらいでしたけどね。

村上 早稲田大学が、とても強かった時代ですね。
廣野 関東大学対抗戦でも連勝記録を作っているときでした(60連勝を達成)。1年生の時は早明戦で明治と対抗戦で引き分けて、大学選手権決勝は負けました。

村上 廣野さんは2年生からレギュラーですが、高校時代と比べて早稲田大学ラグビー部で学ぶことは多かったですか。
廣野 それはもう、目からうろこ、砂漠に雨です(笑)。最初に感銘を受けたのは、練習でも試合と同じラインを引いてやることです。練習でも、タッチラインを踏んでしまうと、「今のタッチだから、アゲイン」とやり直しをさせられる。ゴールライン手前でもスピードを緩めず、必ず走り抜けなくてはいけない。試合では当たり前のことを練習から手を抜かずにやる。こういうことが拮抗した試合の大事な局面でミスをしないことにつながるわけです。それも、一軍から下のチームまで全員が同じことをする。誰かが怪我をしても代わりの選手が同じことができる。そういう強さもあったと思います。
【プロフィール】廣野 眞一/ひろの・しんいち 株式会社集英社・代表取締役社長。1956年生まれ、65歳、大阪府出身。早稲田大学教育学部教育学科卒業。1979年入社。書籍宣伝課課長、広報室部長代理、広告部部長、宣伝部部長、コンテンツ事業部部長などを歴任。2013年8月役員待遇、2014年8月取締役、2016年8月常務取締役、2019年8月専務取締役就任。2020年8月より現職。


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