【インタビュー】社会で活躍するラガーマン 日本維新の会 幹事長 藤田文武 〜その2〜


人生を変えた父からの手紙
人の役に立ちたいと政治家を志す


村上 筑波大学に進学されたのは、何か目的があったのですか。
藤田 私のクラス担任で、ラグビー部顧問の先生が筑波大学ラグビー部出身だったのです。ものすごく良くしていただいて、筑波のラグビー部に関心を持ちました。私はスポーツの勉強をしたいと思っていたので、筑波大学には国立大学では数少ない体育学部があり、そこを受験しました。ただし、3年間ラグビーに集中していたので、浪人して合格しました。

村上 大学での練習はどうでしたか。
藤田 筑波大学には、高校日本代表候補など全国から世代トップクラスの選手が来ていました。公立高校から浪人して入部して、最初は大変だと感じました。ただ、上下関係が厳しくなくて、下級生時代はのびのびさせていただいて、本当に楽しかったです。オン、オフの切り替えもしっかりした部でしたし、冷静さと、バチッと気合いを入れるバランスをとるのが上手な選手が多かった気がします。

村上 筑波大学はラグビー部寮もないし、自分たちで考えてプレーするイメージのチームですよね。
藤田 私の恩師で当時の監督の中川昭先生がよく話をされていたのが、「自立した選手を育てたい」ということです。高校生に声をかけるときも、キャプテン、副キャプテン経験者をリクルートの主軸に置いていたそうです。私の同期も半数以上がキャプテン、副キャプテン経験者でした。みんなリーダーシップがあるのです。その中のキャプテンは、キャプテン・オブ・キャプテンですよね。

村上 リーダーを経験すると、フォロワーになったときも、リーダーのために何をすべきかが分かりますよね。
藤田 そうだと思います。私の学年は仲が良かったのですが、キャプテンはみんなが認めるキャプテンでした。秋田工業高校から来た保坂豪というのですが、彼はすごかったです。みんなをバシッとまとめましたから。ラグビーの良さは、試合が始まると監督が逐一指示しないですよね。そのときに自立が求められ、プレーの切れ間で流れを変えるコメントのできる人間はキャプテンの資質があると思います。それが大学の頃のキャプテン、副キャプテンにはありました。同期ながら尊敬しています。

村上 卒業後はどんな進路を選んだのですが。
藤田 母校(高校)の保健体育の非常勤講師をして、ラグビー部のコーチをしました。それである程度お金をためて、ニュージーランド(ウェリントン)とオーストラリア(ゴールドコースト)に行きました。クラブチームでプレーし、オフシーズンはタッチラグビーの面白さも知りました。オーストラリアではワーキングホリデーで遊びながら英語を覚え、ニュージーランドではスポーツの専門学校で学びました。筑波大学でスポーツ経営学を勉強をしていたので、スポーツビジネスに関わる仕事をしたいと思っていたのです。ただ、卒業せずに帰ってきたので、留学ではなく遊学と言っています(笑)。

村上 何か事情があったのですか。
藤田 本当はニュージーランドかオーストラリアで働こうと思っていたのですが、父が病気になったことで帰国することになりました。日本でもスポーツの業界で就職活動をしまして、3年間務めた会社の社長に育てていただいて、その会社が経営するスポーツジムを取り仕切るような役にも就きました。

村上 そこから政治の世界はどう結び付くのですか。
藤田 大学時代から経営者か政治家になりたいと思っていました。なぜかといえば、亡くなった父から、大学1年生の時に「世の中のために働きなさい」という熱い手紙をもらったからです。質実剛健でとにかく厳しい人でした。高校で試合に出られないときは「努力が足りん」と叱られました。そんな父が手紙をくれたのです。真意はわかりませんが、おそらく大学に入って遊んでいるのを知って、このままではダメになると思ったのでしょう。その手紙で人生について考えるようになりました。その後、父が亡くなったことで、余計に考えるようになりました。人の役に立つには世の中の指導者、リーダーになりたい思っていました。そんなときに橋下徹さんが出てきました。橋本さんはラグビーをしていました。馬場共同代表、吉村知事もラグビー経験者です。そんなシンパシーもあって、2012年に維新政治塾に行くことにしました。

つづく
藤田文武
1980年12月27日生まれ 大阪府寝屋川市出身 
大阪12区選出衆議院議員 日本維新の会幹事長 
四條畷高校からラグビーを始める 筑波大学ラグビー部OB 地元ラグビースクールの指導の経験あり

関連記事