『ヒーローズカップ』レフリー委員長インタビュー

高岡秀行 ヒーローズカップレフリー委員会委員長へインタビューしました。
 
1、 ラグビー経歴 
 大阪教育大学入学時は陸上部に入部希望でありましたが高校の先輩にラグビー部を勧められラグビー部に入部します。中学時代は準硬式の野球部でキャッチャー、高校時代は陸上部で円盤投げをやって成績も収めましたので陸上部に入る事に決めていましたが、身体の大きさをかわれてラグビー部に引き入れられてしまいました。1年生が6人入って部員がやっと17人になったラグビー部ですが、この年から先輩たちが厳しい練習をしようと言いだした年でもありました。その練習の成果か、2年時には関西大学リーグではA、B、CとあったうちのCの4ブロックうちの一つで一位になり、4ブロックの優勝決定トーナメントでも最終戦龍谷大学に勝利、Cリーグ優勝校となります。Bリーグとの入替戦の相手は立命館大学、破竹の勢いの大阪教育大学は立命館大学にも勝利、Bリーグ入りを果たします。3年時にはBリーグで関西大学や近畿大学にも勝利、全勝優勝を果たします。Aリーグとの入替戦の相手は京都産業大学でしたが勝利する事なくBリーグに留まりました。Aリーグ入りはおろかAリーグでも充分戦えるのではないかと言う手応えを感じて挑んだ4年時はBリーグで近畿大学に敗れ、Aリーグとの入替戦は2年続けての京都産業大学でしたが、Aリーグの壁は厚く、確か112対0で敗れたと思います。しかし、大学時代はそれまでラグビー未経験でしたが2年生以降はリーグ戦については23勝3敗という信じられないサクセスストーリーが経験できました。

2、 レフリー経歴 
 大学卒業後は教員となりすぐにC級レフリーの資格を取得しました。当時関西社会人Aリーグで大阪教員チームとしてプレーする中、菅平のレフリー研修会に誘われます。誘って頂いたのはスクールウォーズ(伏見工業高校―大阪工業大学高校)の試合でレフリーを務められた野々村先生です。この菅平研修でレフリーの楽しさを知る事ができました。関西社会人Aリーグ、関西大学Aリーグ、全国高校大会、全国社会人大会や三地域対抗の試合で笛を吹くようになり、関西協会による20日間のオーストラリアへのレフリー研修(関西代表チーム帯同)も経験させていただきました。関西協会レフリー委員会副委員長を経て現在ヒーローズカップのレフリー委員会委員長としてお手伝いさせてもらっています。

3、 ヒーローズカップ経歴 
 ヒーローズカップでレフリーをしていた西田さんから誘われて第8回からレフリーをしました。最初は子どものルールも詳しくなく参加しましたが、子どもたちが繰り広げるプレーの質の高さに驚かされました。第10回から関西協会レフリー委員長田中伸明さんからレフリー委員長のバトンを渡されました。地方によってローカルルールのようなルールの解釈に違いがあったものを統一する活動や、レフリー研修会を開きレフリーの技術向上を目指して来ました。レフリー研修会ではレフリング技術の向上だけではなく、相手への尊敬やレフリー誕生の歴史の話など、ラグビー文化の説明もさせていただいています。

4、 こども世代のラグビー 
 「勝ちを目指すが、負けから得られるものは大事、失敗を見守る事」も教育の一面かと思います。ヒーローズカップでは試合中に指導者は選手への声出しが禁止されています。指導者が大声を出して試合中に指示する姿はなくなりました。ヒーローズカップ以外のラグビー大会でも、指導者が一切の指示を出さない事がルール化された大会も始まっています。ヒーローズカップの考えが浸透して来たと喜んでいます。

5、 これからのラグビー 
 日本代表には強くなって欲しい。また、故平尾誠二監督が取り入れたグローバルな選手を活かす世界では当たり前に開かれたチーム作りをすることでこれからの世代のラグビーキッズには国や人種、性別にかかわらずラグビーを楽しむことを伝えて行きたいです。
 いつまで走れるか分かりません(老人と言われる年齢になりました)が、レフリーを続けたく思います。走れなくなってレフリーができなくなっても、ラグビー普及のための活動を続けて行きたく思っています。

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