岡村啓嗣が語る平尾誠二

35年間平尾誠二さんを撮り続けた写真家・岡村啓嗣が語る
「同志社大学三連覇、神戸製鋼七連覇と、その時代」

 
2025年1月10日、ラグビークラブハウス98(大阪府豊中市)にて、平尾誠二さん(故人)を振り返るトークショーの第2弾が行われた。昨年10月は平尾さんの生涯を振り返ったが、今回は同志社大学時代の全国大学選手権三連覇、神戸製鋼での日本選手権七連覇時代の写真を軸にゲストの元日本代表WTB東田哲也さんとともに思い出を語った。東田さんは同志社大学では平尾さんと同期のチームメイト。日本代表でともにプレーし、社会人では神戸のワールドでライバルとして平尾さんと対戦した。写真は、1983年10月、ウェールズ遠征に向かう日本代表の集合写真から始まった。そして最後は阪神・淡路大震災での平尾誠二さんの話に収束していく。震災から30年、ぜひ読んでいただきたいエピソードがある。※写真は想像してお読みください。
(進行・文/村上晃一)
 
クラブハウスの壁に飾られたウェールズ代表ジャージ
そのエピソードから話は始まった

 
村上 平尾誠二さんを振り返るトークライブは前回大好評で、2回目を開催することになったのですが、今回も満席のお客様で平尾さん人気のすさまじさを感じております。岡村さん今回もよろしくお願いします。
岡村 前回のトークライブで初めてこのお店に来たのですが、驚いたことがありました。そこの壁に掛けられたウェールズ代表のジャージです。1983年10月の日本代表・ウェールズ遠征は日本ラグビー史に残るインパクトの大きな遠征でした。しかも、ウェールズ代表のジャージを交換できた日本代表選手は数名しかいません。それがなぜここにあるのかと思ったら、これは東田哲也さんが交換したジャージだったのですね。
東田 日本代表キャップが1しかない僕が交換したたった一枚のジャージです。
岡村 平尾さんもこの遠征に参加しています。1982年に膝を骨折し、リハビリをして復帰したばかりでした。日本代表に選出されたもののウェールズ代表とのテストマッチに出られるかどうかは分からない状態でした。この遠征で日本代表は強豪クラブチームも含めて5戦を予定していました。平尾さんはベストメンバーを組んだ第一戦には出られず、「第二戦にすべてをかけた」と言っていました。そして、テストマッチのメンバーに選ばれたわけです。12番は平尾さん、11番が東田さんでした。
村上 この写真は遠征前の日本代表の集合写真ですね。
岡村 秩父宮ラグビー場で撮影されたものです。
村上 最前列の真ん中に松尾雄治キャプテンが座り、その両脇に日比野弘監督と金野滋団長がいて、二列目に平尾さんと東田さんが並んでいますね。谷藤尚之さん、石塚武生さんもいます。いま東京サントリーサンゴリアスで活躍する河瀬諒介選手のお父さんの泰治さんもいますね。
岡村 実は私はこの遠征に行かない予定でした。ところが、平尾さんが「岡村さん、今回の日本代表はかなり強いから来た方がいいよ」と言うのです。
東田 たしかに第一戦に平尾は出ていません。センターは金谷福身さん、ウイングが早稲田大からサントリーに入った本城和彦さんでした。平尾は第二戦で活躍し、最終戦のウェールズ代表戦の両センターは平尾と小林日出夫さんになり、金谷さんがウイングに回って本城さんはメンバーから外れました。監督の日比野さんは早稲田大学の監督だった人ですが、選手を公平に見てくれました。
岡村 この写真はテストマッチが行われたカーディフのアームズパークに日本代表が徒歩で向かうところです。この遠征はウェールズ協会のフルインビテーションでスタジアムの近くのホテルでした。手前を歩くのが東田さんで平尾さんもいます。気迫がみなぎっていました。当時のアームズパークは芝生が長かったのですよね。
東田 そうそう。この時は日本代表のために少しカットしてくれたそうですが、それでも長かったです。ウェールズのラグビーアンセム「ランド・オブ・マイ・ファーザーズ」を観客が大合唱するのです。僕は君が代より感動してしまいました(笑)。
村上 ウェールズ代表の対戦相手からよく聞く言葉です。誰もがあの大合唱に感動するのです。試合は最終的には29-24でウェールズが勝つのですが、日本代表が大健闘しました。日本代表は終盤に突き放されるのが普通でしたが、この時は追い上げました。深夜に日本でテレビ中継を見ていた人はみんな興奮したと思います。キャプテンは新日鉄釜石の松尾雄治さんで、現地のラグビー記者を驚かせる大活躍でした。
岡村 翌日の地元カーディフの新聞が「レッドドラゴンズのしっぽが食いちぎられた」という見出しで、これは印象的でした。そして、この写真は試合後のロッカールームの様子です。東田さんと平尾さんです。(※レッドドラゴンズはウェールズ代表の愛称)
東田 僕が肩にかけている赤いジャージがここにあるものですね。
岡村 平尾さんは相手のロッカールームに行って交換しようとしたら断られたそうです。
村上 代表デビューの選手は自分で持っておきたいから断ることが多いのですよね。
東田 僕は初キャップだったけど交換しました。これからキャップ数を重ねるつもりだったからです。これで終わるとわかっていたら交換しませんよ(笑)。
岡村 2人とも膝にテーピングをしていますが、平尾さんは回復してきていたところで、東田さんは痛めていたのですよね。
東田 膝の調子が悪くて、当時の同志社大の渋谷コーチには「将来があるのだから、遠征に行くな」と言われたほどです。でも、僕はどうしても行きたかった。結局、靭帯が切れていて、その後手術した時には靭帯は溶けて無くなっていました。
村上 早めに治療していたら、もっとキャップを重ねることができたでしょうね。
東田 ウェールズ代表ともいい試合ができたし、僕はこの遠征に行って良かったと思っています。忘れられないのは、キャプテンの松尾さんがテストマッチ前に涙したことです。そんなキャラではないのに、その思いの強さにぐっときましたね。
 

同志社大学黄金時代
平尾さんの鼻骨骨折と幻のトライ

 
岡村 この写真は1982年1月2日の大学選手権準決勝です。1年生の平尾さんは10番、東田さんは11番でした。同志社大が明治大をリードしていたのですが、同志社の14番が退場になって逆転負けします。
東田 前半僕がトライして(当時トライは4点)、後半にPGを入れて7-0。よっしゃ、明日の新聞の見出しは僕だと思ったら、そこから負けました。当時、一発退場は聞いたことがなかったので驚きましたね。
村上 相手の頭を踏んだということで退場になったのですが、明治大に誰も踏まれたという選手がいなくて物議をかもしました。
岡村 平尾さんはゲームリーダーだったから、ゴール前のピンチでNO8の阿部さんを14番の位置に入れた。それでスクラムで押されるのです。写真の平尾さんはとても悔しがっていて、こんなに悔しがるのは珍しい。後でこの件について聞いたら、「NO8をウイングに入れたことは間違っていないと思うけど」と言った後、言葉が続きませんでした。
村上 次の写真は、どこかトレーニング場のようなところでの平尾さんですね。
岡村 平尾さんは大学2年生のときに膝を骨折するのですが、京都の踏水会(スイミングスクール)でリハビリをしているところです。
東田 当時、同志社大のラグビー部のトレーナーだった河合香苗先生が踏水会の方だったからですね。これは平尾がパーマをかけて、みんなで似合わんな~って言っていたころですね(笑)。
村上 次のかっこいい顔の写真はいつですか。
岡村 大学3年生のウェールズ遠征前の日本代表合宿ですね。このとき、鼻の骨を折っています。
東田 そうでした。平尾は顔の怪我が多かった。僕と違ってディフェンスも行っていましたから。
岡村 首から上だけで63針縫っていると話していました。鼻が折れたのは菅平合宿の練習試合で河瀬泰治さんのタックルが偶然顔に入ったらしいです。骨が固まると直すときに痛いと言われて、すぐに自分で直したそうです(会場:悲鳴)。次は同志社大学の岩倉グラウンドでの黄金バックスです。
村上 東田さん、平尾さん、綾城高志さん、松尾勝博さん。
東田 あと福井俊之ね。
岡村 私もいろいろな大学に取材に行きましたが、同志社の雰囲気はまったく違って、外部の人間を受け入れてくれるところがありました。岡仁詩先生に「平尾君と東田君の写真を撮らせてください」と話したら、どうぞ、どうぞ、と。それがこの写真です。同志社の練習は笑顔が絶えませんでした。
村上 この写真はいつですか。
岡村 大学選手権V2を決めたロッカールームで喜びを爆発させているところです。決勝戦で日体大に勝って、強かったですね。
東田 土田雅人(現・日本ラグビーフットボール協会会長)もいますね。
岡村 次は4年生の大学選手権決勝(慶應義塾大戦)の平尾さんです。
村上 ラインアウトから走ってトライするところですね。
岡村 慶應が猛反撃して、10-6まで追い上げられて、最後に慶應のトライになりそうだったパスがスローフォワードの判定になりました。
村上 後半36分。幻のトライとも言われました。
岡村 試合の2、3日後に当時サントリーにいた本城和彦さんと喫茶店で会う機会があったので、あれはスローフォワードではないですよね?と尋ねたら、本城さんは「僕はゴールラインの延長線上のスタンドで見ていました。あれはスローフォワードでした」と言ったのです。
東田 パスをした松永敏宏さんは今でも「あれはスローフォワードではない」と言っていますけどね(笑)。
 

ワールドが止めた神戸製鋼連勝記録
V7達成2日後の阪神・淡路大震災

 
岡村 大学選手権3連覇後、平尾さんは大学を卒業し、イングランドに行きます。
村上 この列車の窓から外を見ている写真、かっこいいですね(※ラグビー校訪問やリッチモンドクラブでのプレー写真などが次々に紹介された)。
岡村 帰国して神戸製鋼に入ります。これは灘浜グラウンドでの練習のスナップですが、平尾さんは(ミスなどあると)ものすごく怒ることがあるのです。400ミリの望遠レンズで見ていても怖いと思うくらいの迫力でした。次の写真は近鉄との試合です。神戸製鋼の公式戦連勝記録を止めたのは東田さんがプレーしたワールドのようですね。
東田 そうです。関西社会人Aリーグで最後にワールドが勝った後、神戸製鋼の連勝記録が始まり、1994年11月に71連勝で止めました。同じ神戸にあるワールドとしては絶対に負けられないという気持ちで戦っていました。ただ、ワールドが勝った試合には、平尾が出ていません。あいつは、そういう勘も鋭い(笑)。
村上 神戸製鋼は7連覇を達成するシーズンに負けているのですね。
東田 そうそう、ワールドに負けてこれはいけないと危機感が出て、あの自由な神戸製鋼が禁酒して社会人大会に臨んだ。V7に貢献しちゃいましたよ(笑)。
村上 これは日本選手権の写真ですね。
岡村 V2のときで早稲田大学が相手でした。
村上 清宮克幸さんがキャプテンでした。試合前に平尾さんが「しょうもない勝ちなら、早稲田にくれてやれ!」とチームメイトを鼓舞したのは、かっこよかったです。また、平尾さんの対面のセンターに泥(どろ)という選手がいて、平尾さんにステップで抜かれたのですが、報道陣にそのシーンについて聞かれて「かっこよかったです」とコメントしました(笑)。
岡村 この写真は社会人大会決勝で東芝に勝ってV7を達成した時です。平尾さんの目から自然に涙があふれて、写真を撮りながら驚きました。嬉しくても悔しくても泣く人ではなかったので。
東田 珍しいシーンですね。
村上 僕はこのときラグビーマガジンの編集長で、大会後に平尾さんに涙の理由についてインタビューをしました。その記事にはこのように書かれています。「この一年、いろいろ大変なことが多くて、自分自身にプレッシャーをかけてやってきたから、その解放感かな。怪我人が多く出たり、ワールドに負けたり、状況が不利になればなるほど、勝ちたい気持ちが増してきた。そのなかでチームを作り上げてきたところがありましたからね」。
東田 かっこええこと言うね。
岡村 1月15日に大東文化大学との日本選手権に勝ち、その2日後に阪神・淡路大震災が起きるのです。ひと月後くらいに平尾さんと話をしたら、大震災の当日、神戸製鋼のラグビー部の選手たちがいる独身寮へ車で様子を見に行ったそうです。すると、独身寮の近くで家がつぶれていて、その前におばあさんが放心状態で座り込んでいた。どうしたのですか?と聞いたら、「まだ、この中に娘と孫がいる」と言われて、助け出したと話してくれました。
平尾さんは2016年10月20日に53歳で亡くなりましたが、その数日後、神戸新聞にある投稿が載りました。
実は投稿をしたのが助けられた女性だったのです。その文章を読ませていただきます。見出しは「ありがとうも言えず」です。
『平尾誠二さんが亡くなりました。大震災当時、神戸製鋼の独身寮の向かいに我が家がありました。自宅は地震で倒壊。母は助かりましたが、私と娘はがれきの下に埋まってしまいました。そこに平尾さんが通りかかり、私を引っ張り出して助けてくれたのです。でも、26歳の娘はダメでした。平尾さんはご自分の車に母を寝かせ、裸足の私に大きな靴をくださいました。とても優しい方でした。私は娘の亡骸とともに寺に避難しました。その後、平尾さんとはずっと会えず、お礼も言えていません。ありがとうの一言を言いたかったのに』。
最後に2019年のラグビーワールドカップ日本大会のファンゾーンで流された平尾さんの映像をお見せして終わりにします。
東田 こうして岡村さんがたくさんの写真を撮ってくださったからこそ、こうして平尾のことをみんなで思い出す時間ができる。そのことが何より嬉しいです。岡村さん、きょうは本当にありがとうございました。
村上 東田さんにとって平尾さんはどんな存在でしたか。
東田 同志社では仲間ですが、高校では全国大会の決勝で惜しくも負けた悔しい相手だし、社会人では何度か勝ったとはいえ、平尾がいるチームにはいつも勝てなかった。親友だけどライバルでもあった。でも、僕が一番印象に残っているのは、膝を叩いて大笑いする平尾です。飲みに行って、カラオケを歌って、楽しそうに笑っている。そんな平尾が好きでした。
岡村 平尾さんを35年にわたって撮り続けましたが、被写体と写真家という関係を乗り越えて付き合っていましたね。私からすれば親友です。平尾さんが亡くなったとき、親友がいなくなったと思いました。私のような思いを持っている人はずいぶん多いと思います。それだけ平尾さんの存在は大きくて、今も多くの人の心に残っていて、それぞれの人が平尾さんと対話をしながら自分の行く方向を考えている。そういう存在だと思いますね。
村上 岡村さん、東田さん、きょうはありがとうございました。

ラグビークラブハウス98
71件

関連記事