【インタビュー】社会で活躍するラガーマン 熊谷組 東京本社 本部長 岡市光司


早稲田大学でプレーした従兄弟の影響で

枚方高校でラグビーを始める


村上 このコーナーでは、ラグビーを経験したことによって、その後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。今回のお客様は、株式会社熊谷組専務執行役員で関西支店長の岡市光司(おかいち・こうじ)さんです。岡市さんがラグビーと出会ったのはいつなのですか。

岡市 私は大阪の枚方の田舎のほうで生まれて、野原を駆けまわって育ちました。11歳上の従兄弟(高橋哲司さん)がラグビーをやっていたことでラグビーに出会いました。従兄弟は大阪の四条畷高校から早稲田大学に進学し、HO(フッカー)として3、4年生で日本選手権を連覇しています(昭和46年、47年)。宿澤広朗さん(故人)の1学年上でした。当時、ラグビーのテレビ中継は少なかったのですが、日本選手権はNHKで放送していましたので応援しました。

村上 それは強烈なインパクトですね。

岡市 小学5年生の頃、従兄弟の家に遊びに行ったら、母の姉にあたる伯母が「早稲田大学の卒業式に行くけど、一緒に行く?」と言うんです。それで、東京まで連れて行ってもらいました。秩父宮ラグビー場に全日本学生とオーストラリア代表コルツの試合も見に行きました。当時は東伏見にあったラグビー部の合宿所に泊めてもらって、翌日は早稲田大学の卒業式に出ました。従兄弟から「お前も大きくなったら、ここでラグビーをやれよ」と言われていました。

村上 そこからラグビーを始めたと。

岡市 ところが、家の近くの中学にはラグビー部がなかったので、高校で始めようと思っていたんです。私の3歳上で池田洋七郎さん(トヨタ自動車、日本代表でプレー)という人がいますが、池田さんが地元の大阪府立枚方高校から高校日本代表に選ばれていて、調べてみると枚方高校は大阪の全国大会予選でも3度決勝に進出していました。強い学校だと知って受験し、友達を誘ってラグビー部に入りました。

村上 実際に入部してみると練習が厳しかったようですね。

岡市 3年生が6人、2年生が3人です。友達を連れて行ったこともあって1年生は8人いて、やっと試合ができるような状態でした。練習は厳しくて、人数が少ないからどんな練習でもすぐに順番が回ってくる。休む暇がないんです。しんどかったけど、ラグビーをやろうと思って枚方高校に行ったのだから、辞めるわけにはいきませんでした。ポジションはフランカーでした。2年生から3年生になるときにキャプテンになり、近畿大会の大阪予選に臨みました。大阪工大高校は前年度優勝で予選免除。あと2校出られるということで、各学校がチャンスをつかもうと気合が入っていました。我々は3回戦で大阪府立茨田高校と引き分けたのですが、抽選で決勝に進出しました。最終的には大阪市立都島工業に負けて近畿大会は行けなかったのですけどね。

村上 大阪工大高以外はみんな公立高校です。

岡市 群雄割拠の時代でした。今年は花園に行けるチャンスかもしれないと思って頑張ったのですが、全国大会予選は3回戦で大阪府立阪南高校に負けて終わりました。

村上 全国大会予選までやり切って、それから京大を目指したわけですか。

岡市 3年生の11月に負けたのですが、ラグビーに明け暮れて模擬試験も受けたことがなかったんです。担任の先生に「どうするんだ?と聞かれたので、「従兄弟が行っていた早稲田大学と神戸大学を受験します」と言ったら、「好きにしなさいと言われました(笑)。学校の勉強はできたのですが、受験勉強をしていなかったので、当然、不合格で予備校に通うことになりました。

村上 その一年で成績が伸びたのですね。

岡市 予備校生活で夜中まで勉強していると、寝つきが悪くなって悔しい思い出ばかり頭に浮かびます。大学ではラグビーはしないつもりでしたが、あれだけしんどいことをしたのに負けたのが悔しくなってきて、やっぱりラグビーをしようと考え直しました。ラグビーの強い国公立を探したら、京都大学だったんです(当時、関西大学Aリーグ)。偏差値は低かったけど、「のびしろはある」って勝手に自信を持っていて、高校のラグビー部の練習に比べたら、勉強なんてしんどくないと思って頑張りました。二浪するつもりはなかったので、早めに合格が決まる宮崎県の航空大学校を受験し合格。そこから、早稲田大学と、京都大学にチャレンジしました。両方合格しました。

村上 すごい! どうして早稲田大学には行かなかったのですか。

岡市 早稲田大学の受験は前年のリベンジでした。京都大学は学生が自主的に活動していたので楽しかったです。4年間、関西大学Aリーグでプレーしましたが、4年生のときは最下位になり、入替戦で大商大に負けてBリーグに落ちてしまった。情けなくて、私の人生で一番の汚点です。次の年は後輩たちが頑張ってすぐに再昇格してくれましたが、ずっと申し訳ない気持ちを持ち続けています。


モノづくりが好きで熊谷組へ

ラグビーの経験が現場で生きた


村上 卒業後、熊谷組に就職した理由を聞かせてください。

岡市 工学部の土木工学科で学んでいて、求人のあった熊谷組の入社試験を受けました。私の家が工務店で幼いころから工事現場は見ていたし、モノづくりも好きだったので、建設会社には行こうと思っていました。

村上 ラグビーの経験は仕事に生きましたか。

岡市 ラグビーの特徴は、いろんなタイプの人間がいるということです。それらをまとめていかなければいけない。企業にあてはめれば、ダイバーシティ&インクルージョンです。私は入社以来現場が多かったのですが、現場にはいろんな職種の人間がいます。みんなとコミュニケーションをとりながら、受け入れ、一つの大きなものを作り上げていく仕事です。ラグビーで体験したことが役に立ちました。

村上 現場監督にも早くになられたのでしょうね。

岡市 そうですね。私は現場が大好きなのですが、40歳台で部長になり、現場からは離れました。いまは関西支店長ですが、4月から本社の土木事業本部長になります。

村上 現場監督の頃に作られたもので、私でも知っているものはありますか。

岡市 分かりやすいところでいえば、JR東西線の北新地から大阪天満宮駅のトンネル工事、阪神高速の神戸線から山手線の長田のトンネル工事、これは私が現場で監督していました。

村上 仕事と並行してラグビーにも関わっていたのですね。

岡市 京都大学ラグビー部OBで、新日鉄釜石の日本選手権7連覇の礎を築いた市口順亮さんが2005年から監督になられたときに、声をかけられて4年間コーチを務めました。Bリーグに降格させてしまった罪滅ぼしで部への貢献をしたかったんです。OBの皆さんに声をかけ、2007年から宇治の練習グラウンドを天然芝生化するプロジェクトリーダーをしました。寄付も集めました。安価で芝生のグラウンドを作る「NPO法人グリーンスポーツ鳥取という団体があるのですが、そこに行き、やり方を教えてもらって、芝の苗を植えました。苗植えは人海戦術なので、地元の南京都ラグビースクールにも声をかけ、お子さん、お母さんにも手伝ってもらいました。6月20日に植えて、7月の末には全面芝生になりました。それから昨年まで維持しましたが、丸和運輸機関様より寄付をいただき、天然芝を張替え、もう一面、人工芝のグラウンドを整備しました。

村上 岡市さんは京都大学ラグビー部100周年記念事業の実行委員長も務めていますね。

岡市 来年、京都大学ラグビー部は100周年を迎えます。2022年7月10日、記念シンポジウムを京大の時計台記念館で実施することが決まっています。この他、100周年事業でやろうとしていることが2つあります。一つ目の環境改善は、丸和運輸機関様から寄贈いただいた天然芝と人工芝のグラウンドを維持していきます。二つ目は国際交流です。京都大学のジャージはダークブルーで、オックスフォード大学にならっています。京大と同じ自由な校風を持つこともあり、オックスフォード大学と交流を持つことにしました。来年の3月にオックスフォード大学を招へいし、翌年、オックスフォードに遠征しようと思っています。これを今後、4年おきに実施し、学生のグローバルリーダーとしてのモチベーションを高めて行けたらと思っています。

村上 京都大学ラグビー部の卒業生にグローバルリーダーになってほしいということですか。

岡市 そうです。卒業生が社会でグローバルリーダーとして活躍し、それを見た子供たちが京都大学ラグビー部に魅力を感じて入部してくる。そういう循環になってくれたらと願っています。実は京都大学ラグビー部100周年特設サイトを立ち上げ、山中伸弥さんのインタビューや、垂(たるみ)秀夫・駐中国大使のインタビューもあります。部の歴史も紹介しています。ぜひご覧ください。

村上 岡市さんは、ラグビーというスポーツのどういう面が人を育てると思いますか。

岡市 多様性のある人間をしっかり受け入れることでしょうね。それは社会的に役に立ちます。また、社会に出てみるとラグビーをしていたということで共感されることが多い。プレーしていたレベルには関係なく、ラグビーをやっていたというだけで共感され、親しくなります。仕事上でもいろんな場所でラグビー経験者に会いますよ。

村上 今後のお仕事の目標を聞かせてください。

岡市 私のこれからの一番のミッションは人材の育成です。若い人材をいかに育てていくか。ここに注力しようと思っています。建設業自体も若い人が入って来ず、技術の継承が難しい状況です。建設業全体を持続可能なものにしていきたいと思っています。ラグビーについては、これまで通り裏方として支えていきたいですね。

【プロフィール】

岡市光司:1960年4月3日枚方市生まれ 

株式会社熊谷組東京本社本部長 

11歳年上の早稲田大学のラグビー選手であった従兄弟に憧れラグビーを始める 

枚方高校、京都大学ラグビー部OB 

京都大学100周年記念事業実行委員長

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