【インタビュー】社会で活躍するラガーマン サントリー酒類執行役員 土田雅人様~その2~


村上 就職先としてサントリーを選んだ理由を聞かせてください。

土田 スーツを着て仕事がしたかったのです。昭和60年あたりの社会人ラグビーは、工場、グラウンド、寮が近くにあるチームが多かった。サントリーはスーツを着て営業をして、一人暮らしもOKでした。ただし、サントリーはまだ全国大会にも出たことがなかったので、ラグビーよりも仕事優先でサントリーを選びました。

村上 ラグビーをしていたことが仕事に生きたのはどんなことですか。

土田 サントリーで現役選手の頃は、朝9時から5時半まで仕事をし、午後7時半から練習していました。現役を引退して監督になっても、まったく同じでした。監督就任と同時に会社では課長になりました。会社では部下が7、8人。グラウンドに行くと選手が40名くらいにコーチ陣もいる。でも、マネージメントは同じです。会社の部署でも一人ずつ丁寧に接することが必要だし、ラグビーも良いチームを作るためには、各部員、コーチとコミュニケーションをとらなくてはいけない。仕事もラグビーもターゲットを決めて、それをどうやって目指すかを考える部分はまったく同じです。ラグビーで経験したことを仕事で生かし、仕事で経験したことをラグビーに生かすのです。

村上 以前、お話を伺ったとき、腐ったリンゴを出さないようにしているという話をされていて、印象に残っています。

土田 仕事もラグビーも全員がトップにはなれません。たとえば、トップが2人いて、中間層が3人いて、まだそこまでたどり着けない若手社員がいたとします。その若手をどう上げていくか。ラグビーも同じで、同じポジションに3選手がいた場合、1人目はレギュラー、2人目は控え選手、3人目はなかなか試合に出られない。心の中では「俺は実力があるのに出してくれない」と思っているかもしれない。いかに腐らせないようにするかが監督の仕事だと思います。たとえば、試合が日曜日でメンバーを木曜日に発表するとします。そんな時は必ず、メンバー発表前にメンバー外の選手に、なぜ出られなかったかを説明するようにしていました。仕事も同じで、なぜその社員の仕事が上手くいっていないのかを伝えます。何が足りないのかが明確になれば頑張ることができる。社員が多いと全員に声をかけるのは難しくなりますが、できるだけ現場に行って、現場を知ることを大事にしています。

村上 会社のリーダーとして、ラグビーでのキャプテン経験が生きている部分はありますか。

土田 ラグビーというスポーツは、100mを11秒台で走る選手もいれば、20秒かかる選手もいる。でも、その20秒の選手は力持ちで、ボールの奪い合いには強い。いろんなタイプの選手がいる競技で、それがラグビーの良さです。小さな選手も、足の遅い選手にも、活躍の場があり、うまく組み合わせて強いチームを作る。それを肌で感じて理解できる。いろんな個性、発想を大事にするのが、ラグビーの良さだと思います。私は、仕事の上でも個性をつぶさないように心がけています。

村上 サントリーでもキャプテンをしていますね。グラウンド上でチームをリードする経験は貴重ですね。

土田 私は、ラグビーは上手くなかったのですが、リーダーとして、こういうときに声をかけるとか、試合中のこの場面では引き締める、ということはキャプテン時代に学びました。グラウンドでの立ち居振る舞いなども、キャプテンをしながら覚えたことです。

村上 これまでのラグビー人生で一番印象に残っている思い出は何ですか。

土田 同志社大学時代の大学選手権三連覇は印象に残っています。選手でいるときは勝っているときの記憶が強い。監督になると負けた悔しさが大きくなります。だからこそ、絶対に勝てるチーム作りをするのです。大学三連覇以外で、もう一つあるとしたら、サントリーの監督時代(32歳)、神戸製鋼の8連覇を阻止して初優勝したとき(1995年度)です。あれは嬉しかったですね。翌年は準々決勝で負けたのですが、その悔しさは、以降のラグビーに生きました。

村上 その後、平尾誠二さんが日本代表監督に就任した時、補佐するコーチを務めますが、この経験も大きかったようですね。

土田 グローバルな視点が持てたという意味で大きかったです。世界のラグビー界がプロ化に進み、日本が追いついていなかった頃です。平尾と世界中をまわって、どうやったら追いつけるのかを必死で考えました。日本代表では結果は出なかったのですが、その後サントリーの監督に復帰した時には優勝することができました。

村上 世界を見る、知るということは大切だということですね。

土田 現在ではラグビーのプロリーグの試合もテレビで生中継を見ることができます。20年前まではそんな中継はなく、映像を送ってもらって研究していました。いまはチームで海外遠征も多いし、日本に強豪クラブを招いて戦うこともできれば、海外のトップコーチも呼べる。どんどん発展していますね。

村上 土田さんがもっとも影響を受けたコーチは誰ですか。

土田 エディ・ジョーンズ(前日本代表ヘッドコーチ、元イングランド代表ヘッドコーチ)でしょう。彼はプレーヤーとしてはオーストラリア代表になっていないのですが、コーチがしたくて、学校の先生を辞めて来日し、最初は東海大学の臨時コーチになりました。彼はプロのコーチとして成功したいと思っていましたから、サントリーのコーチになったときも必死で勉強していた。それも、オーストラリアのラグビーを教えるというよりは、日本人をリスペクトし、理解して教えようとしていました。そのプロフェッショナルな姿勢はすごかったです。練習は夜なのに、朝7時からグラウンドに来て準備し、ビデオを見て勉強していました。

村上 指導者としてのセンスではなく、勉強して上り詰めたということですよね。

土田 エディは、日本で成功して、オーストラリアに戻って実績を積み、42歳でオーストラリア代表監督になりました。しかし、2003年のオーストラリア大会ではオーストラリア代表を率いながら準優勝に終わった。その悔しさは相当なものだったでしょう。そこで、彼は日本に助けられた。日本人が失意のエディを迎え入れてくれたわけです。

村上 失敗から学ぶことも大事だということですね。

土田 2015年のラグビーワールドカップでは、日本代表のヘッドコーチとして臨み、目標の決勝トーナメントに行けなかった。これも、彼にとっての失敗です。現在、ヘッドコーチを務めるイングランド代表では絶対に失敗しないように緻密にやっています。いまだに朝5時に起きて、7時にはグラウンドに行っているみたいです。僕は「働き方改革してください、残業しすぎです」と言っているのですけどね(笑)。

村上 土田さんは労働時間については、どのように考えていらっしゃるのですか。

土田 僕は中身だと思っています。マネージメントする側が時間をしっかりコントロールすることは大事ですが、働き方改革というより、育て方改革です。メンバーを時間内にいかに育てていくか、それが大切です。子育てしているお母さんだって、怒ってばかりではなくて、よい子になるように育て方を考えていますよね。そこなんですよ。

土田雅人様

秋田県秋田市寺内生まれ。秋田県立秋田工業高等学校から同志社大学に進学。平尾誠二、大八木淳史らと共に大学選手権3連覇に貢献。卒業後にサントリーへ入社し、ラグビー部に所属。1995年に現役引退して監督就任、1年目で日本選手権初優勝に導く。

1997年には平尾誠二監督率いるジャパンのフォワードコーチとしてワールドカップに出場し、2000年に平尾監督と共に辞任。その後、再びサントリー監督として、2001、02年にチーム初の日本選手権2連覇を果たす。

2003年にサントリー監督を退いたが2008年ゼネラルマネージャーとして復帰(2009年から強化本部長)。元オーストラリア代表(ワラビーズ)で世界最多キャップホルダーのジョージ・グレーガンを引き抜きチーム強化にも本腰を入れる傍ら、本業では東京第1支社第1支店長や西東京支店長を歴任、東京支社プレミアム営業部長としてプレミアムモルツ拡販の陣頭指揮を執る。新規販路開拓で社長賞を受賞。

2011年9月1日付でサントリー酒類執行役員スピリッツ事業部長に就任した[3]。

2015年6月28日の日本ラグビーフットボール協会理事会で理事に就任することが発表された。

同志社大学時代のチームメイトでもあった平尾とは、旧友でありライバルでもあった。


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【インタビュー】社会で活躍するラガーマンたち サントリー酒類執行役員 土田雅人~その3~

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