【インタビュー】社会で活躍するラガーマン サントリー酒類執行役員 土田雅人様~その1~


村上 このコーナーは、ラグビーを経験したことによって、その後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。第三回目のゲストは土田雅人さんです。まずは、現在のお仕事の内容から聞かせてください。

土田 サントリーの食品、たとえば、お茶の伊右衛門、コーヒーのBOSSなどを自動販売機で売る事業を考え、サービスを提供する会社(サントリービバレッジソリューションズ株式会社)の代表取締役社長を務めています。5年前まではサントリーフーズという会社の社長をしていました。現在の会社は2年前に立ち上げられたものです。子会社も含めると、8,000人くらいの従業員がいます。

村上 その仕事だけでもお忙しいと思うのですが、日本ラグビーフットボール協会でも理事を務めていますね。

土田 2016年10月に亡くなった平尾誠二(同志社大学ラグビー部同期)に誘われて、日本のラグビーを盛り上げる手伝いをしようと思って理事になりました。平尾はトップリーグの担当でしたが、私は日本代表強化を担当しています。エディ・ジョーンズ日本代表ヘッドコーチの後、誰をヘッドコーチにするかということも検討しました。

村上 仕事との両立は大変だと思います。

土田 サントリーラグビー部の監督をしているときも、仕事をしながらでしたし、両立するのは当たり前になっています。

村上 最初にラグビーというスポーツを見たのはいつ頃ですか。

土田 中学2年生だったと思います。全国高校大会の決勝戦をテレビで見ました。地元の秋田工業高校が、大阪工大高校と戦っていたのですが、それを見て、秋田県にも日本一を狙えるスポーツがあるということを知りました。私は野球部でしたが、野球では全国大会に出ても、なかなか勝てない。ラグビーは決勝まで行ける。中学の同期にラグビーが大好きな友人がいて、一緒に図書館でラグビーマガジンを読み、秋田工業高校でラグビーがしたいと思うようになりました。

村上 秋田工業高校のラグビー部と言えば、全国大会の常連で優勝回数も多い伝統校です。初心者では大変だったのではないですか。

土田 新入部員は55名いましたが、卒業時に残ったのは14名です(笑)。いかに、根性のある人間が残るかという状況でした。意外にも、高校で初めてラグビーボールを持つ選手が多く、それでも日本一を狙えるように、基本の練習を繰り返しました。走ること、タックルが基本です。今のラグビーはそれだけではダメですが、当時はそれを徹底したら優勝を狙えるレベルになった。ただ、気が付いたら40名ほど辞めていた(笑)。そういう経験があったから、自分が指導者になったときには、いかに辞めさせないかということに気を使いましたね。

村上 しかし、練習が厳しいだけでは勝てないでしょうから、秋田工業なりの教え方があったのでしょうね。

土田 練習の時はOBのほうが多いくらいです。長老から若手のOBまでが、どんどんグラウンドに入ってきて、マンツーマンで教えてくれました。そういう指導があたから強くなれたと思いますね。それでも、1、2年生の頃はやらされている練習だったと思います。それが、高校3年でキャプテンになって、高校日本代表候補の合宿に行って、平尾誠二に出会いました。高校世代を代表するトップ選手と一緒になったときに、こういうラグビーの考え方もあるのだと、いろんなことを勉強させられました。そして、高校日本代表に選出され、オーストラリア遠征に行きました。そこで40日間、いろんな地域でホームステイをしました。今では海外に行くのは当たり前ですが、あの当時、18歳で40日間も海外で生活し、練習、試合を続ける経験は衝撃的でした。オーストラリアに友達もできたし、ものすごく刺激を受けましたね。

村上 日本の他府県、海外の高校生など友達が増えたのは財産ですね。

土田 後に日本代表、オーストラリア代表になった選手もいます。神戸製鋼でプレーしたイアン・ウィリアムズもいましたね。試合後には必ず両チームが交流する「アフターマッチファンクション」があって、両チームのキャプテンがスピーチをする。日本の歌と英語の歌を覚えて行ってみんなで歌う。すごく良い文化だと思いました。高校生でそんな経験ができたわけです。スポーツはもっともグローバル化の進んでいる分野だと思いますね。

村上 ラグビーによって日本のトッププレーヤーに出会い、世界を知ることができた。そのことによって目標は変わりましたか。

土田 秋田県の高校生は、普通は東京の大学を目指すのですが、私は京都を選びました。これは高校日本代表の合宿で平尾と出会ったことが大きかったです。高校日本代表では平尾がキャプテンで、私がバイスキャプテンでした。彼はもともとシャイなところがありましたが、そういう立場になったこともあって、よく2人で話しました。大学はどこに行くのか聞いてみると、同志社大学だと。当時は情報が少ないですから、どういうラグビー部なのかよくわからない。平尾は京都でそのあたりは詳しい。彼の話を聞いているうちに、私も同志社大学を受験してみようと思うようになりました。

村上 京都の生活はどうでしたか。

土田 最初は大変でしたよ。食文化、言葉の違い、すべてです。関西弁を話さないと叱られますし(笑)。でも、最初は苦労しましたが、関西の方々は優しい。一歩中に入ると、しつこいくらいに優しくしてくれる(笑)。ラグビー部の寮もあったのですが、僕は寮生活をせず、一人暮らしをしました。勧めてくれたのはラグビー部の先輩です。そのほうが楽しいよ、学校にも行って、いろんな友達を出会えるからと言うのです。受験に行ったときに、先輩が車で一緒に不動産屋さんを回ってくれました。まだ合格するかどうかわからないのに探してくれるって、良い先輩ですよね。

村上 秋田から京都に行くと言ったとき、ご両親は反対しなかったのですか。

土田 反対しなかったですね。好きにさせてくれました。大学時代に大学選手権三連覇して親孝行になったと思います。

村上 秋田工業高校と同志社大学ではプレー環境もスタイルもまったく違いますよね。

土田 まったく違います。当時はグラウンドが土だったのですが、秋田のグラウンドの柔らかさに比べると関西のグラウンドは堅い。痛かったです(笑)。プレースタイルも慣れるまで苦労しました。当時の同志社大学は岡仁詩先生が指導者で、ああしろ、こうしろとは言わず、こういうことをしたら面白いのではないか、という提案をされる方でした。それを選手がやるかやらないか考えるわけです。試合に出るメンバーを決めるのも最後は平尾と私でした。ラグビーの試合中は、グラウンドにいる選手がすべてを決めます。同志社では練習のときも選手がどうするか考える。それが面白かったですね。

村上 高校、大学で学んだことの違いを改めて教えてください。

土田 高校では、走ること、タックルすること、ボールをパスすること、基本の徹底だけです。それがラグビーの原点であり、私の人としての原点でもあります。大学時代は自分で考え、発想してラグビーをしました。一人暮らしは、何事も自分の意志で決め、日々何を食べるかを考える。そして、同志社大学のラグビー部は先輩に対して後輩が思ったことを言える雰囲気がありました。もちろん、礼儀はあります。それも良い勉強になりました。秋田を出て、上下関係の厳しい大学に入っていたら、人生がまったく違ったものになったと思います。

土田雅人様

秋田県秋田市寺内生まれ。秋田県立秋田工業高等学校から同志社大学に進学。平尾誠二、大八木淳史らと共に大学選手権3連覇に貢献。卒業後にサントリーへ入社し、ラグビー部に所属。1995年に現役引退して監督就任、1年目で日本選手権初優勝に導く。

1997年には平尾誠二監督率いるジャパンのフォワードコーチとしてワールドカップに出場し、2000年に平尾監督と共に辞任。その後、再びサントリー監督として、2001、02年にチーム初の日本選手権2連覇を果たす。

2003年にサントリー監督を退いたが2008年ゼネラルマネージャーとして復帰(2009年から強化本部長)。元オーストラリア代表(ワラビーズ)で世界最多キャップホルダーのジョージ・グレーガンを引き抜きチーム強化にも本腰を入れる傍ら、本業では東京第1支社第1支店長や西東京支店長を歴任、東京支社プレミアム営業部長としてプレミアムモルツ拡販の陣頭指揮を執る。新規販路開拓で社長賞を受賞。

2011年9月1日付でサントリー酒類執行役員スピリッツ事業部長に就任した。

2015年6月28日の日本ラグビーフットボール協会理事会で理事に就任することが発表された。

同志社大学時代のチームメイトでもあった平尾とは、旧友でありライバルでもあった。


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