自主性を尊重されて成長した高校時代
早大学院での3年間が私の人生の原点
村上 このコーナーでは、ラグビーに出会ったことによって、その後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。今回のゲストは寺林努さんです。よろしくお願いします。現在、寺林さんは早稲田ラグビー倶楽部(OB・OG会組織)で会長を務められていますね。
寺林 今年(2024年)4月に就任しました。OB・OGの取りまとめ、現役の支援をしています。グラウンドでの指導はフルタイムの監督、コーチがすべてやっています。ですから、昔のように監督、コーチではないOBがグラウンドに出て指導するということはありません。私は会長として試合には可能な限り行くようにしています。昨日も上井草グラウンドに行っていました。
村上 寺林さんが現役時代は東伏見にグラウンドがありましたね。ずいぶん環境も変わったでしょうね。
寺林 変わりました。上井草は2面のグラウンドが天然芝と人工芝ですから、まったく違います。東伏見はいつも土埃で、雨が降るとぬかるみ、夜中までグラウンド整備をすることもありました。そういう点は大きく違いますね。
村上 ラグビーを始めたきっかけを聞かせてください。
寺林 中学の時はバレーボールをしていたのですが、たまたま高校受験の時期(1975年1月)にラグビーの近鉄対早稲田大学の日本選手権を見ました。なんか面白そうだと思って、早稲田大学高等学院に入学したあと練習を見に行きました。後で考えると、だまされたのかもしれないのですが(笑)、そこにいたラグビー部の先輩たちが、ものすごく気持ちよさそうに練習していたのです。これは楽しそうだと思って入部したら、実は大間違いでラグビーって大変厳しいスポーツだということを痛感しました。
村上 ポジションはどこですか。
寺林 高校生としては体が大きかったのでフォワードです。最初に試合に出たのはプロップでした。戦績は東京でベスト8くらいでしたが、チームとしては常に花園(全国高校大会)に行こうというレベル感で練習をしていました。2年生の時に事故がありました。チームメイトが練習中に大きなケガをしたのです。それまでは練習に対して積極的ではないところがあり、もっと楽にならないかと思っていたのですが、この件以降、グラウンドでは気を抜いてはいけない、本当に緊張感を持って練習しないといけないのだと感じて、チーム全体の雰囲気が変わったと思います。
村上 3年生の時には東京の予選を勝ち抜いて全国大会に出場していますね。
寺林 私はキャプテンになり、TBSの社長を務めた佐々木卓君(現在はTBSホールディングス会長)がバイスキャプテンになりました。この年は、大西鐵之祐先生(元日本代表監督、元早稲田大学監督)がよく来てくださって、いろいろ教えていただきました。鈴木じゅん監督との関係で、1年生、2年生のときもスポット的に来ていただいていました。
村上 大西先生と言えば、日本代表、早稲田大学の歴史の中でも稀代の勝負師であり、名将です。どんなことを高校生に教えてくださったのですか。
寺林 細かい技術的なところもありますが、要するに「お前らの強いところは何だ、特徴は何だ、そこを前面に出す戦い方をしろ」ということでした。その中で、当時の高校生ではあまりやらないことを考えてやっていましたね。当時、目黒高校(現・目黒学院)、國學院久我山は圧倒的に強かったですから。差を縮めようとしても、超えられる感じがしませんでした。それでも、全員の意思統一、戦い方の戦略戦術の意思統一をし、相手がこう動いたらこう動くというようなことを全員がしっかり意識して、徹底していきました。
村上 大西さんは、綿密な準備をされる指導者だったようですね。
寺林 ゴールから逆算して考えるということはよく言われていました。春の終わりまではここまで行く、夏が終わればここまで行くと、大西先生と鈴木監督がいて、我々とコーチでいろいろ考えていきました。
村上 チームはどんな雰囲気だったのですか。
寺林 自主性を大切に指導いただいていました。高等学院は学校自体が、自由とは何か、その反面、責任を自分で取るということを体感させるところなのです。髪の毛の長さも自由ですし、服装も自由です。中学は義務教育であり、お父さんお母さんに引かれた路線を行きますよね。高等学院では服装、髪の毛は自由、授業もみんなが自主的に出ていくような、大学がそのまま高校になったような感じなのです。その中に部活もありましたので、部活動も高校生の自主性を尊重してくれました。そこで人間的な成長があったし、学院での3年間が私の人生の原点であったと思います。
村上 自主性を重んじると同時に、高校3年生では國學院久我山高校を破って全国大会出場という体験もされていますね。
寺林 たぶん100回やって1回勝てるか勝てないかっていう実力差だったと思います。久我山の中村監督は職員会議で「決勝は50対0で勝つ」と言っていたそうです。秩父宮ラグビー場の観客席も久我山の学生服を着た高校生で真っ黒でした。学院の生徒も応援に来てくれたのですが、こちらは私服で人数も少なくて(笑)。
村上 全国高校大会はどうだったのですか。
寺林 1回戦で報徳学園と戦って引き分け、抽選で次に進めませんでした。報徳学園のジャージーが早稲田と同じ赤黒の縞模様だったので、ファーストジャージーを着用できるかどうかはキャプテンがじゃんけんで決めました。私が負けて学院は関西協会のジャージーを借り、初めて赤黒ジャージーのチームと試合をしました。そして引き分けてキャプテン同士の抽選になり、じゃんけんで勝ったと思ったらそれは最初に抽選権があるということで、封筒を引いたら「進出権なし」と書いてあった。その後の記憶は何もありません。仲間に合わせる顔もありませんし、ジャージーを選ぶじゃんけんでも負けて、私は本当に勝負弱いとうなだれました。
~つづく
早稲田ラグビー倶楽部会長寺林努1982年4月1日 東京海上火災保険株式会社
1982年7月1日 東京営業第三部契約第四課
1987年4月1日 本店営業第三部営業第四課
1988年6月1日 海外尝業第一部
1988年6月4日 海外営業第一部バンコク駐在員(スリ・ムアン社)
1993年6月21日 総合営業第一部営業第二課
1997年7月1日 総合営業第一部営業第二課長
2000年7月1日 海外本部米国支店シカゴ首席駐在員(TMM社 2001年7月1日 海外本部米国支店シカゴ首席駐在員(課長待遇)TMM社)
2004年7月1日 海外本部米国支店シカゴ首席駐在員(次長待遇)TMM社)
2004年10月1日 (合併)東京海上日動火災保険株式会社
米国支店シカゴ(TMM社)首席駐在員(次長待週)
2006年7月1日 米国支店シカゴ(TMM社)首席駐在員(部長待遇)
2007年8月1日 総合営業第二部長
2010年7月1日 東京自動車営業第二部長
2012年7月1日 理事 東京自動車営業第二部長
2013年6月24日 理事 アジア部長 兼 シンガポール(TMアジア社)駐在員(部長待遇)
2015年4月1日 執行役員(アジア部長およびTMアジア社・シンガポール(アジア)駐在員(部長待遇)委嘱)
2016年6月23日 常務執行役員
2019年3月31日 常務執行役員退任
2019年7月1日 独立行政法人医薬品医療機総合機構