【インタビュー】プロフェッショナルプリント事業本部長 植村利隆様 その1~

高校から始めたラグビーで多様性を体感
村上 このコーナーでは、ラグビーに出会ったことによって、その後の人生を豊かにした方々にお話を聞いています。今回のゲストはコニカミノルタのプロフェッショナルプリント事業本部長、上席執行役員(2025年3月現在)の植村利隆さんです。よろしくお願いします。まずは、現在のお仕事のことから聞かせてください。
植村 印刷は生活の中で大事なものですが、従来のアナログ印刷には大きな無駄があり、大量生産、大量配送、大量廃棄で、環境に優しくない部分があります。それを我々のデジタルの技術を使って無駄をなくすことに取り組んでいます。適量生産、適量配送、最少廃棄ということを実現し、世の中に優しい印刷サプライチェーンの構築(パーパス=存在意義)を掲げて、事業をグローバルに展開しています。
 
村上 世界各地に拠点があるのですね。
植村 日本で私がリーダーを務めた事業本部は900人ほどですが、グローバルでは1万人ほどの部隊になります。この3月までは日本でグローバルの本部長を務めていましたが、これから欧州に行き、私がもともと手掛けていた事業の推進を自ら販売最前線で加速することになります。
 
村上 ラグビーに出会われたきっかけはどんなものでしたか。 
植村 私が通った中学にはラグビーがなかったのですが、当時、プロのアメリカンフットボールをテレビでよく放送していまして、ダラスカウボーイズの大ファンでした。友達とアメリカンフットボールの真似をしていて、進学した大阪府立市岡高校にはラグビー部があったので入部しました。
 
村上 ラグビーは別のスポーツですが、違和感はなかったのですか。
植村 なかったです(笑)。当時の市岡高校は府大会で3回戦までは勝つのですが、そこでシード校に負けて敗退するというのがパターンでした。私が在学中に負けたのは、全国的にも強い大阪工大高(現・常翔学園)、啓光学園(現・常翔啓光学園)ですね。市岡高校の部活動は2年生で引退し、3年生は受験勉強をするというのが慣例でした。私は勉強せずに遊んでいましたね(笑)。自由闊達な高校でした。
 
村上 ラグビーで学んだことはありますか。
植村 ラグビーにはいろいろな人がいますね。中学時代の私は足が速い方でしたが、ラグビー部に入ると、ものすごく足の速い人がいました。私より背の高い生徒、体重が重い生徒、技術的に上手い生徒もいる。その多様性を実感しました。
 
村上 ポジションはどこでしたか。
植村 私はラグビーの知識が乏しかったものですから、よくわからずに「どのポジションが空いていますか?」と尋ねたら、プロップなら空いているということで、プロップになりました。秋までプロップを経験して、チーム編成が代わってCTBになりました。半年ほどしてSOになりました。キックは飛距離も出て、自信がありました。
 
村上 2年生の最後の試合は、どこの高校と戦ったのですか。
植村 秋の大会の3回戦で大阪工大高(現・常翔学園)と戦いました。私はWTBで出場したのですが、対面が東田哲也さん(後の日本代表)でした。めちゃくちゃ強いチームで、明治大学、神戸製鋼に進んだ広瀬良治さんなどがいて、コテンパンに負けました。当時の市岡高校ラグビー部には監督が不在で練習メニューも選手が考えていました。振り返ると、運動能力の高い選手が多くて良いチームでした。
 
村上 同志社大学に進学されたのですが、体育会のラグビー部には入らなかったそうですね。
植村 同じ高校の先輩がラグビー部に入っていたので練習を見に行ったことがあります。これくらいなら頑張れば3年生でレギュラーが取れるかなと感じました。先輩にそう話したら、「1軍と2軍は東京に遠征中だ」と言われて、これは厳しいと思って、同好会に入りました。御所(京都御苑)の中のグラウンドで練習していました。
 
村上 ラグビー観戦には行きましたか。
植村 海外のラグビーもテレビで見ていましたし、同志社大学も強かったですからね。同年齢で平尾誠二さんや、東田哲也さんがいて、上には大八木淳史さんや、林敏之さんもいましたし、よく見に行っていました。
 
村上 平尾さんを学校で見かけることはありましたか。
植村 見かけましたよ。テストの時に3列ほど前の席に平尾さんが座っていることもありました。何やら一生懸命書いていて、かっこよかったですよ。キャンパスでは冬はピーコートを着ていて、目立ちましたね。

つづく~
植村利隆
コニカミノルタ上席執行役員(2025年3月現在)
プロフェッショナルプリント事業本部長
大阪府立市岡高校ラグビー部
同志社大学ラグビー同好会


関連記事