【インタビュー】社会で活躍するラガーマン TBSテレビ代表取締役社長佐々木卓様〜その2〜

宿澤広朗さんの新聞記事が

ラグビーを始めるきっかけでした


村上 佐々木さんご自身がラグビーを始めたきっかけを教えてください。

佐々木 子供の頃、ラグビーをメインにした青春ドラマがあって、ラグビーのことは知っていましたが、プレーしようと思ったことはありませんでした。僕は体育だけはいつも「5」で、運動は大好きでした。でも、背が低いのがコンプレックスだったんです。中学3年生の夏休み前に新聞を読んでいたら、早稲田大学ラグビー部OBの宿澤広朗さんという人が、ラグビーチームのない住友銀行(現・三井住友銀行)で働いているにもかかわらず、日本代表に選ばれたということが書いてありました。その宿澤さんのプロフィールに身長163㎝とあった。僕と同じです。そんな小さな人が日本代表に選ばれるスポーツがあるのだと驚きました。それでラグビーをすることに決めて、高校、大学7年間たっぷりラグビーをしようと思って、どこでもいいから大学の付属高校のあるところに入学するために一生懸命勉強しました。結局、家が新宿だったもので、早稲田大学高等学院を受験し、入学して迷わずラグビー部に入ったというわけです。

村上 実際に始めたラグビーは面白かったですか。

佐々木 当時の早大学院はそれほど強くはなかったのですが、練習はきつくて大変でした。でも、楽しかったですね。1年生の夏合宿で、菅平高原に行く前だけですね、逃げ出したくなったのは。先輩に「菅平ではみんな倒れる。逃げ出す」など、さんざん脅されましてね(笑)。

村上 入学後の戦績はどうだったのでしょうか。

佐々木 1、2年生のときは、全国大会の東京都予選で敗退です。僕のポジションはスクラムハーフでした。高校3年生のとき、大西鐵之祐さんと出会いました。日本代表、早稲田大学ラグビー部監督などを歴任された名将です。ところが、この時期だけ、コーチとしての肩書がなかった。その大西さんがグラウンドに「よおっ!」と現れるんです。そして、「君たちは何のためにラグビーをやるんだ?」と問いかけられた。僕は優等生的に「花園(全国大会)に行くためです」と言いました。すると「違う」と。「君たちはナショナルリーダーとなって、日本を戦争させないためにラグビーをやっているんだ」。その時は、意味が分かりませんでした。大学を卒業し、社会人になってやっと言っている意味が分かるようになりましたね。ラグビーという競技は自分をコントロールすることが求められます。激しい闘争の中でフェアなプレーが要求される。人の痛みを知っているからこそ、痛めつけられても報復、復讐をしない。ラグビーをすることによって感情をコントロールできるようになる。一時の感情で他国を攻めたりするような人間になるなと、ずっと言われました。

村上 感情のコントロール。ラグビーの肝ですね。

佐々木 かっとして相手に罵声を浴びせるようなチームはだいたい弱いです。本当に強いチームは、黙々とタックルに入ってくる。冷静なのが一番怖いです。

村上 大西さんが総監督になり、1シーズンで東京予選を突破するわけですよね。いったいどんな指導だったのですか。

佐々木 大西さんの指導は凄かったです。攻撃面でいうと、春の間に50個くらいのサインプレーができるようになりました。小さなFWでしたが、スクラムも猛練習しました。練習中、ひとつひとつの練習の意図を説明してくれます。すべてに理屈がある。そんなことを叩きこまれて春が終わりました。秋になると練習がガラっと変わりました。全国大会予選が近くなると、サインプレーを3つに絞り込み、来る日も来る日も繰り返す。僕はBKリーダーだったので、「なぜ、他のサインプレーを練習しないのですか」と質問しました。すると、「お前ら、久我山とか目黒を相手に4つも5つもサインプレーを使えると思っているのか? せいぜい3つだ」と言われました。この3つと、ラインアウトのピールオフというサインプレー。4つで勝負です。実際に強豪の国学院久我山高校との対戦では、大西さんの言った通りになり、サインプレーから2トライを取りました。スクラムもあれだけ猛練習したのに、秋にはうまく力を抜いて回す方法を教えてくれた。今は反則ですが、当時は大丈夫でした。春と秋で、指導が大きく変わったのです。春は理屈を叩き込み、最後の勝負で「ラグビーは理屈じゃない、ここだ」と胸を叩かれる。泣きました。最後に理屈じゃないと言われると、死ぬ気で頑張りますよ。そういう天才的な指導者でした。

村上 大学でも同じようなことが起きるのですね。

佐々木 早稲田大学が低迷している時期で、僕が1年から3年までは早明戦も大学選手権も勝てませんでした。そんなとき、大西さんが監督として戻ってきた。我々が4年時の明治大学は、北島忠治監督が「明治史上最強」と言うほどの強力FWで、早稲田は絶対に負けると言われていました。国立競技場は満員。その中で早稲田が勝ったのです(昭和56年12月6日)。

村上 そのとき、佐々木さんは9番で出場されていたわけですが、劣勢を跳ね返して勝つという経験はその後の人生の大きな影響があったのではないでしょうか。

佐々木 「ゾーンに入る」という言い方がありますね。僕も初めてそれを経験しました。集中しきっていて、6万人超の大観衆の声がまったく聞こえませんでした。秩父宮ラグビー場で「あのスクラムハーフ、へたくそ」とか言われるといつもはよく聞こえるのに、この日は雑音がまったく耳に入らず、相手の動きもゆっくりとしたものに見えました。タックルも、いつもは身体の大きな相手に対して怖いのに、恐怖心がない。不思議な体験でしたね。明治に勝つというひとつの目的のために、心構え、体調のコントロールなど、ずっと良い準備を続ければ120%くらいの力が出るということを学びました。これは、受験でも、仕事でも、同じことだと思います。

村上 早明戦では勝ちましたが、大学選手権での再戦では敗れました。

佐々木 どんなに強い相手でも、本当に勝ちたいと思って努力を続ければ予想を覆して勝てるという自信を得たと同時に、上には上がいることも分かった。少し天狗になって負けたのです。試合中に、あれ、明治って強いなと思った瞬間に、いろんな野次が聞こえてきた(笑)。あの時の明治は、僕たちの鼻っ柱をポンと折るくらい強かったということで、脱帽でした。


~つづく


【プロフィール】

東京都出身。早稲田大学法学部卒。

1982年、東京放送(現 TBSテレビ)入社。

北京支局長、「筑紫哲也ニュース23」プロデューサー、編成局編成部長、

経理局長、グループ経営企画局長、編成局長などを経て、2015年TBSテレビ取締役。

2016年常務取締役、2017年専務取締役。2018年6月から

TBSテレビ代表取締役社長、東京放送ホールディングス代表取締役社長。一般社団法人日本民間放送連盟副会長。60歳

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